EP 5
物理的な嫌がらせは『超撥水コーティング』で弾き返します
どんなに自慢話を並べ立てても、どんなに高価なドレスを見せつけても、目の前の平民は涼しい顔でケーキを平らげ、的外れな「経営用語」で褒めちぎってくるだけ。
イザベラ令嬢の我慢は、ついに限界に達しようとしていた。
(この女……! なぜ泣かないの!? なぜ惨めな顔をして私にひれ伏さないのよ!)
イザベラのギリッと歯軋りする音が、サロンの静寂の中に響く。
前世で数え切れないほどの理不尽なクレーム対応をこなしてきた私にとって、相手の怒りが「論理」から「感情」へと完全にシフトした瞬間は、手に取るように分かった。
言葉によるマウント(精神攻撃)が通じないと悟ったクレーマーが次にとる行動。それは往々にして、机を叩く、パンフレットを投げつけるといった『物理的な実力行使』である。
イザベラは扇子の陰で顔を歪めながら、背後に控えていた恰幅の良いメイド長に向かって、鋭い視線を送った。
メイド長は小さく、しかし確実に一つ頷き、ワゴンを押して下がっていく。
(ふむ。やはり来ましたね。交渉決裂からの、実力行使フェーズ。労働環境における重大なヒヤリハット事案の発生です)
私は最後の一口のスコーンを飲み込み、手元のナプキンで優雅に口元を拭った。
周囲の令嬢たちは、イザベラの合図に気づいたのか、あからさまに私から少し距離を取り、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて見守っている。
「ヒカリ様。先ほどからケーキばかり召し上がっていますけれど、喉が渇いたでしょう? 我が家の特別な紅茶を、もう一杯いかがかしら?」
「お気遣いありがとうございます、イザベラ様。ですが、すでにお腹はいっぱいで――」
「遠慮なさらないで! 南方の国から取り寄せた、最高級の茶葉ですのよ。淹れたての熱々を、ぜひ味わっていただかなくてはね」
イザベラの声と同時に、先ほどのメイド長が銀のティーポットをトレイに乗せて戻ってきた。
ポットの注ぎ口からは、シューシューと音を立てて白い湯気が噴き出している。見るからに、沸騰した直後の熱湯が注がれているのは明らかだった。
メイド長は私のテーブルへと近づいてくる。
そして、私のすぐ横を通り過ぎようとした、その瞬間。
「ああっ! いけません、足がもつれて――!」
メイド長は、これ以上ないほどわざとらしい大声を上げながら、絨毯の何もない場所で「派手に」つまずいた。
彼女の手から銀のトレイが離れ、熱湯が入ったティーポットが宙を舞う。
ポットの蓋が外れ、中から煮えたぎる琥珀色の液体が、滝のように私の地味なモスグリーンのドレスに向かって降り注いできた。
(なるほど。古典的ですが、非常に悪質な『業務妨害』および『傷害未遂』事案ですね)
周囲の令嬢たちが「きゃあ!」と短い悲鳴(歓喜の声)を上げる。
イザベラの顔には「これでその貧相なドレスは台無し、全身大火傷で無様な悲鳴を上げなさい!」という、確信に満ちた邪悪な笑みが張り付いていた。
熱湯が、私の肩から胸元、そしてスカートへと直撃する。
――バシャァッ!!
だが、次の瞬間。
サロン内に響き渡ったのは、私の悲鳴ではなかった。
「「「…………えっ?」」」
イザベラ、メイド長、そして周囲の令嬢たちの時が、ピタリと止まった。
彼女たちの視線の先。そこには、熱湯を頭から浴びたはずなのに、火傷一つ負わず、服に染み一つ作っていない私の姿があった。
「きゃあああああっ!? 熱いっ! 熱いいいいっ!?」
「な、何なのこれ!? 私の、私の三ヶ月かかった最高級のドレスがああああ!!」
絶叫を上げたのは、私を攻撃しようとしたメイド長と、私のすぐ向かいに座っていたイザベラだった。
一体何が起きたのか。
答えは簡単だ。【善行通販システム】で召喚した、現代科学の粋を集めた『超撥水コーティング&自動温度調節機能付き・特殊素材ドレス』の驚異的な防衛機能が発動したのである。
私のドレスに降り注いだ煮えたぎる熱湯は、生地に一滴たりとも染み込むことはなかった。
超撥水コーティングに弾かれた紅茶は、まるで水銀の球のように美しい真ん丸の水滴となり、ドレスの表面をツルツルと滑り落ち、そのままの勢いで全方位へと弾け飛んだのだ。
弾き返された大量の熱湯は、物理法則に従い、最も近くにいたメイド長の顔面とエプロン、そして向かい側に座っていたイザベラの真っ赤なベルベットドレスの裾へと、見事に直撃したのである。
「あちちちちっ! 奥様、お許しを!」
「熱い! 汚い! 金糸の刺繍が紅茶で染まって……あああっ、私の百五十万ゴールドのドレスがぁぁぁっ!!」
イザベラは椅子から飛び退き、紅茶の染みが急速に広がっていくベルベットの生地を掴んで発狂した。
サロン内は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。先ほどまで私を嘲笑っていた令嬢たちも、弾け飛んだ熱湯のしぶきを浴びて「きゃあ!」「私のドレスにもシミが!」と大パニックに陥っている。
「きゅいっ! 自業自得なのですよ! ヒカリの最新装備(防具)を舐めるから、こうなるのですよ!」
首元に巻き付いているコハクが、誰にも聞こえない念話でケラケラと腹を抱えて笑っている。
「……おや。これは大変な事故(労災)ですね」
私は立ち上がると、ドレスの表面にわずかに残っていた数滴の紅茶の球を、指先でピンと弾き飛ばした。シミ一つ、シワ一つない完璧なモスグリーンのドレス。最新のナノテクノロジー繊維は、外部からの熱を完全に遮断するため、私の肌は一ミリたりとも熱さを感じていない。
私はまるで、社内でコーヒーをこぼした部下を気遣う有能な上司のように、スッと懐から純白のハンカチを取り出し、顔を真っ赤(火傷と怒りで)にしているイザベラへと差し出した。
「お怪我はありませんか、イザベラ様? お屋敷の動線管理(メイドの歩行ルート)に少し問題があったようですね。労災認定が必要な事案かもしれません。このハンカチをお使いください。……ああ、その素晴らしいベルベット生地は、水洗いができませんから、すぐに専門のクリーニング業者を手配したほうがよろしいかと」
「……っ! …………っっ!!」
完璧な無傷。
完璧な笑顔。
そして、一切の嫌味を含まない(ように聞こえる)、純粋なビジネスライクな気遣い。
これこそが、イザベラのプライドを粉々に打ち砕く、最強の「ざまぁ(精神的トドメ)」であった。
「さ、触らないでよっ!!」
バシィッ!!
イザベラは差し出された私のハンカチを、狂ったように力一杯払い落とした。
床に落ちる純白の布切れ。サロン内の喧騒が、イザベラのただならぬ怒気によって一瞬にして静まり返った。
縦ロールの髪は乱れ、美しい顔は怒りと屈辱で夜叉のように歪んでいる。もはや「貴族令嬢としての優雅さ」など、微塵も残っていなかった。
「あなた……あなた、一体何なのよ……! 熱湯を浴びて、なぜ平気な顔をしていられるの!? なぜそんなに上から目線で私を見下すのよ!!」
「見下してなどおりません。私はただ、想定外のトラブルに対する初期対応を行っているだけで――」
「黙りなさい! 小賢しい平民の分際で!」
イザベラは肩で大きく息をしながら、血走った目で私を睨みつけた。
「いい気にならないでよ……! あなたがどれだけ強がっても、所詮は誰にも愛されない、哀れで地味な事務員なのよ! アレクセイ公爵閣下だって、あなたのような色気も家柄もない女を、本気で愛するはずがないわ! ただの書類整理の道具として、便利に使われているだけじゃないの!」
それは、イザベラ自身が最も信じたくない「敗北」から目を逸らすための、最後で最大の暴言だった。
周囲の令嬢たちも、息を呑んでその光景を見守っている。ここで私が泣き崩れるか、激昂して取っ組み合いになれば、イザベラの「精神的勝利」で終わるのだろう。
だが、私の心は、そよ風が吹いたほどにも揺らいではいなかった。
(書類整理の道具……。ええ、その通りです。私はヴァルトブルク公爵領の行政を担う、最強のバックオフィス担当。トップに『便利(有能)』だと思っていただけることは、社畜として最大級の賛辞です。それに、偽装婚約の件を見抜くとは、彼女もなかなか鋭い分析力を持っていますね)
私が「貴重なフィードバックとして受け止めておこう」と一人で納得して頷きかけた、その時である。
『ピピッ。現在時刻:お茶会開始から三十分経過。システムアイテム維持まで、残り二時間三十分』
左手首の魔導時計が、微かな振動と共にタイムリミットのカウントダウンを知らせてきた。
いけない。そろそろお暇(退社)しなければ、この最強の防護ドレスが消滅してしまう。
「イザベラ様、本日は貴重なご意見を賜り、誠にありがとうございました。我が社……いえ、公爵領の今後の運営において、大変参考になるデータが収集できました」
私は静かに一礼し、帰るための準備を始めようとした。
「逃げるつもり!? 誰か、この女を捕まえなさい!!」
完全に頭に血が上ったイザベラが、金切り声を上げた。
その声に呼応するように、サロンの扉が乱暴に開かれ、ガルシア家の私兵と思われる屈強な護衛たちが数名、剣の柄に手をかけながら雪崩れ込んできた。
さらに、イザベラの取り巻きの令嬢たちも、逃げ道を塞ぐように私の周囲をぐるりと取り囲む。
(おや。これは完全な『監禁』および『不当拘束』。法務部が黙っていない事案ですね)
「平民の分際で、私に恥をかかせて、このまま帰れるとでも思って!? あなたが泣いて謝るまで、絶対にこの屋敷から一歩も出さないわ!」
イザベラの狂気に満ちた宣言。
ドレスの残り時間が刻一刻と減っていく中、完全な密室に閉じ込められた私。
――しかし、読者の皆様も、そして私自身も知っている。
我が社のトップ(最高経営責任者)は、自社の有能な社員が他社に不当拘束されるような事態を、絶対に許すような男ではないということを。
ズォォォォォォォン……ッ!!
突如として、別邸全体が直下型地震にでも見舞われたかのように、激しく揺れた。
「ひっ!? な、何事っ!?」
「地震!? いや、空気が……急に冷たく……!」
夏真っ盛りの王都であるにもかかわらず、サロン内の温度が急激に、異常な速度で低下していく。
窓ガラスにはビキビキと霜が張り付き、テーブルの上の紅茶がカチンと音を立てて凍りつき始めた。
私の胸元で、アレクセイ様から預かった青いバラのブローチが、ホワァッと温かい光を放ち始める。
「……お迎えが、来たようですね」
私がポツリと呟いた、次の瞬間。
サロンの重厚なオーク材の扉が、外側から巨大な氷柱に貫かれ、ド派手な音を立てて爆散した。
極上の『定時上がり(物理)』の時間が、やってきたのである。
読んでいただきありがとうございます。
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