EP 2
なけなしのポイントで買った特上いなり寿司が、もふもふ神獣を釣りました
「──きゅぅ、ん……、くぅ……」
追放されて三日目。王都から馬車を乗り継ぎ、隣国と接する公爵領の国境近くの森で馬車を降りた私は、街道の脇の草むらから聞こえる微かな鳴き声に足を止めた。
音のする方へ近寄って茂みをかき分けると、そこには泥にまみれて息も絶え絶えになっている、手のひらサイズの白い子狐が倒れていた。
真っ白な毛皮は赤黒く汚れ、脇腹には魔物にでも噛まれたような痛々しい裂傷がある。浅い呼吸を繰り返し、今にも命の灯火が消えてしまいそうだった。
「ひどい怪我……!」
思わず駆け寄り、ハンカチでそっと血を拭う。子狐はビクッと体を震わせたが、逃げる体力すら残っていないようだった。
このまま放置すれば、間違いなくあと数時間で死んでしまう。
私はごくりと唾を飲み込み、目の前の空中に向かって念じた。
「……システム、起動」
『ピロリン♪』という軽快な音と共に、半透明の【善行通販システム】のウィンドウが目の前に浮かび上がる。
画面の右上には、私が前世と今世で積み上げてきた『報われない裏方作業』の結晶とも言える【50,000P】の文字が輝いていた。
この三日間、馬車の中でシステムの検証を行ってわかったことがある。
この通販は、現代日本のあらゆる日用品や食料を取り寄せることができる神のごときスキルだ。しかし、商品は決して安くない。コンビニのおにぎり一つで約500P。つまり、この5万ポイントは、私が当面の間、異世界で安全に『スローライフ』を送るための、たった一つの命綱なのだ。
検索窓に『医療品 特効薬』と打ち込む。
ズラリと並んだ商品の中に、ひときわ目立つ金色のパッケージがあった。
【現代医療の結晶・超高吸収ナノ傷薬(即効性)&高栄養サプリメント点滴セット:45,000P】
※どんな致命傷でも、細胞レベルで瞬時に修復します。
「よんまん、ごせん……」
思わず声が震えた。これを買えば、私のポイントはほぼ底をつく。明日からの食事代すら怪しくなるレベルだ。
せっかく手に入れた自由なスローライフ。このポイントを使って、フカフカの寝袋や美味しい現代の食事を頼み、のんびりと生きるつもりだったのに。
(……でも)
目を伏せ、苦しそうに息を吐く子狐の姿が、前世の私の最期と重なった。
誰もいない深夜のオフィス。終わらない書類の山。心臓が握り潰されるような激痛に襲われ、冷たい床に倒れ伏したあの時。
『誰か、助けて』と手を伸ばしても、誰も私を見てはくれなかった。誰も私を助けてはくれなかった。
「……ここで見捨てたら、私はあのブラック社長やエドワードと同じだ」
誰の助けも得られず、孤独の中で命を落とす絶望を、私は誰よりも知っている。
私は迷うことなく、購入ボタンを強く押した。
【45,000P消費しました。残高:5,000P】
【追加のオプション:お見舞い用の食事はいかがですか?】
画面のポップアップに、ふと目が止まる。
「狐といえば、これよね。油揚げは消化に悪いかもしれないけど、これなら……」
私は残りのポイントからさらに1,000Pを支払い、『老舗デパ地下の特上いなり寿司(三つ入り)』をカートに追加した。
空間が小さく歪み、ポンッという音と共に、銀色の医療キットと、高級感あふれる木箱に入ったいなり寿司が現れた。
「少し痛いかもしれないけど、我慢してね」
私は子狐の傷口を綺麗な水で洗い流し、ナノ傷薬の特殊なジェルをたっぷりと塗り込んだ。
すると、驚くべきことに、ジュワッという微かな音と共に傷口が肉芽を盛り上げて塞がり、ものの十秒で完全に消滅してしまったのだ。
「すごい……! さすが4万5千ポイント!」
痛みが消えたのか、子狐はパチリと金色の丸い目を開けた。
私はすかさず、サプリメント入りの水をスポイトで飲ませ、続けて特上いなり寿司を小さくちぎって口元に運んだ。
「ほら、食べて。栄養をつけないと」
子狐は最初、警戒するように鼻をヒクヒクさせていたが、甘じょっぱい醤油と出汁の香りに耐えきれなくなったのか、パクリといなり寿司を口に含んだ。
「きゅ……っ!?」
子狐の目が、信じられないほどカッと見開かれた。
そして、まるで何日も飢えていた獣のように(実際そうだったのだろうが)、私の手からいなり寿司をものすごい勢いで奪い取り、むしゃむしゃと頬張り始めた。
「あはは、ゆっくりでいいよ。まだあるから」
甘く煮付けられたジューシーなお揚げと、ふっくらとした酢飯の絶妙なハーモニー。異世界には存在しない『日本の旨味』が、子狐の五臓六腑に染み渡っていくのが見て取れた。
最後の一個を平らげた瞬間。
子狐の体が、カッと眩い金色の光に包まれた。
「えっ!?」
光の奔流が渦を巻き、周囲の木々を揺らすほどの圧倒的な魔力が放出される。
思わず腕で顔を庇った私が次に目を開けた時、そこにいたのは小さな子狐ではなく――見上げるほど巨大で、九つの尾を優雅に揺らす、神々しい白狐だった。
『……ふぅ、食った食った! あー、死ぬかと思ったわ!』
威厳に満ちた姿から発せられたのは、どこかギャルっぽさを感じる、明るく弾けるような少女の声だった。
「え、喋っ……!? ていうか、でかっ!」
『あ、ごめんごめん。このサイズだと喋りにくいっしょ』
巨大な白狐がポンッと煙を上げると、今度は和風の着物を着崩した、金の瞳を持つ凛とした美少女が目の前に立っていた。頭にはふさふさの狐耳が、お尻からは九つの立派な尻尾が生えている。
「あ、あの……あなたは?」
「うち? うちはコハク。何百年も生きてる九尾の妖狐、まあこの辺の神獣みたいなもんかな! 悪い魔物に不意打ちされて魔力欠乏でぶっ倒れてたんだけど、あんたのおかげでマジ助かったわ!」
コハクと名乗った神獣の少女は、私の手を両手でガシッと握りしめた。
「あの薬もヤバかったけど、最後に食ったあの甘くてジュワッとする茶色い袋のやつ! あれ何!? 神の食べ物!?」
「えっと、いなり寿司、だけど」
「いなりずし! マジ最高じゃん! あんた、あんな高い薬を初対面の狐に全部ぶっこんで、おまけにあんな美味いもんまで食わせてくれるとか……最高の主じゃん!」
コハクは目をキラキラさせながら、私の背中にバンバンと遠慮のない張り手をしてきた。痛いけど、元気になってくれた証拠だ。
「うち決めた! あんたに命の恩返しする。今日からうちが、あんたの終身雇用ボディガードになってあげる!」
「え? ボディガード?」
「そ! あんた、魔力も全然ないし、戦闘力ゼロのひよっこっしょ? でも、あんたの『気配り』とか『看病の手際』、マジで完璧だった。あの素早い手当てがなきゃ、うちの命はなかったし」
コハクが放った「完璧だった」という言葉に、私はハッとした。
前世でも今世でも、私が裏方としてどれだけ完璧な段取りをこなしても、誰一人として私を褒めてくれることはなかった。
『やって当然』『誰でもできる』と切り捨てられてきた私の仕事を、この異世界の神獣は、真正面から全肯定してくれたのだ。
「……ありがとう、コハク」
目頭が熱くなるのをごまかしながら、私は笑った。
「私の名前はヒカリ。これからよろしくね。……でも私、追放されたばかりで、お金も住む場所もないんだけど」
「オッケーオッケー! んなもん、うちが全部ぶっ飛ばしてやるし、なんとでもなるって! ほら、とりあえずその辺の村まで行こうぜ!」
なけなしのポイントは消え去ってしまったけれど、代わりに私は『最強の盾』であり『最高の親友』を手に入れたのだ。
私の決断は、間違っていなかった。
***
コハクのふかふかの尻尾に撫でられながら街道を歩くこと数時間。
目的の地である、公爵領の辺境の宿場町が見えてきた。
本来なら、越冬の準備や他国からの商人たちで賑わっているはずの季節だ。
しかし、村の入り口に立った私は、その異様な光景に思わず眉をひそめた。
「……何これ」
「うわ、なんかみんな死んだ魚みたいな目してんな」
行き交う人々は一様に青ざめ、荷車は空っぽのまま放置されている。
村の案内所の前には怒号を上げる商人たちと、頭を抱えて泣き崩れる村役人の姿があった。
「頼む、次の小麦の便はまだなのか!? もう三日も遅れてるぞ!」
「だめだ、王都からの荷が全て書類不備で差し止められたらしい……! このままじゃ、冬を越す前に村が飢え死にする!」
その言葉を聞いた瞬間、私の体に染み付いた『営業事務』としての血が、ドクンと激しく騒ぎ立てた。
書類不備による物流の停止。
在庫管理の完全な崩壊。
――なんだこの、世紀末レベルの物流崩壊は!?
読んでいただきありがとうございます。
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