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第一章 有能事務員をクビにした結果、元婚約者の領地が物流崩壊で自滅するまで

「地味な裏方など不要だ」と言われましたので、有給消化に入ります

「地味で無能なお前との婚約は、今日この場をもって破棄させてもらう!」

 シャンデリアが眩い光を投げかける王都の夜会。その中央で、私の婚約者であるエドワード・フォン・バルトア伯爵令息が高らかに叫んだ。

 彼の腕の中には、私とは正反対の、鮮やかな真紅のドレスを身にまとった男爵令嬢がぴったりと寄り添い、勝者のような笑みを浮かべてこちらを見下ろしている。

 音楽が止まり、貴族たちの好奇の視線が、地味な紺色のドレスを着た私――ヒカリへと一斉に突き刺さった。

「エドワード様……それは、どういう意味でしょうか」

「言葉通りの意味だ、ヒカリ。お前は毎日毎日、伯爵邸の薄暗い執務室にこもって紙の束をいじっているだけで、何も生み出さない! 夜会にも顔を出さず、気の利いた会話一つできない無能な女が、次期伯爵である私の妻に相応しいわけがなかろう!」

 エドワードの言葉がホールに響き渡る。

 その声を聞きながら、私の脳裏に雷に打たれたような衝撃が走った。

 ――あ、これ。前世で私を過労死させたブラック企業のワンマン社長と、全く同じセリフだ。

 その瞬間、まるでダムが決壊したかのように、私の中に『前世の記憶』が鮮明に流れ込んできた。

 私の前世は、日本の四年制大学を卒業し、中堅商社の営業事務として働く二十五歳のOLだった。

 毎日のように終電まで残業し、営業部が持ってくるぐちゃぐちゃの伝票や不備だらけの契約書を完璧に修正し、納期遅れを防ぐために各所に頭を下げて回る日々。

 私が裏でどれだけ物流と経理を整えても、手柄は全て営業のもの。社長からは「君の仕事は誰でもできる事務作業だ。売上を作らない人間は無能だ」と罵られ、ボーナスも寸志。

 そして最後は、営業のミスをカバーするための三日連続の徹夜明け、デスクの上で冷めきったコーヒーを握りしめたまま、心不全で過労死したのだ。

 記憶が繋がり、目の前のエドワードの傲慢な顔が、前世のワンマン社長の顔と完全に重なった。

(……私、今世でも全く同じことをやってるじゃない)

 伯爵家に引き取られ、エドワードの婚約者となってからの数年間。私は彼が放り投げた領地経営の書類を全て引き受け、滞っていた物流網を再構築し、税の計算から使用人の給与管理、果ては冬に向けた備蓄の手配まで、たった一人で完璧に回してきた。

 エドワードが毎晩こうして夜会で遊び歩き、浪費できたのは、私が裏で血を吐くような思いで経理と物流の帳尻を合わせていたからだ。

「聞いてるのか、ヒカリ! 私には、隣にいるマリアのように華やかで、私を支えてくれる真のパートナーが必要なのだ! お前のような地味なだけの女は、もうこのバルトア伯爵家には不要だ。荷物をまとめて今すぐ出ていけ!」

 周囲の貴族たちがヒソヒソと嘲笑交じりの声を上げる。

「バルトア家の婚約者殿は、引きこもりだと有名だったからな」

「ただの居候女には、お似合いの末路だろうよ」

 普通なら、ここで泣き崩れるか、「私がどれだけあなたのために働いたと……!」と怒り狂う場面なのだろう。

 しかし、前世の記憶を取り戻し、「優秀な営業事務OL」としての自我が完全に覚醒した私の心は、冷や水を被ったように冴え渡っていた。

(もう、二度と御免だ。手柄を横取りする無能な上司のために徹夜する日々は、前世で終わりにすると決めたじゃないか)

 私はすっと背筋を伸ばし、エドワードを静かに見据えた。

 悲哀も怒りもない、ただの『事務手続き』を行う人間の冷徹な目で。

「……承知いたしました、エドワード様。お言葉通り、婚約は破棄としてお受けいたします」

「ふん、泣いてすがるかと思ったが、自分の無能さをようやく理解したか」

「はい。つきましては、これまで無報酬で代行しておりました領地経営の『業務』を即座に停止し、屋敷を退去いたします」

「……業務? お前が部屋でやっていたおままごとなど、明日から私が適当な文官にでもやらせる。せいぜい野垂れ死ぬがいい!」

 高笑いするエドワードに深く一礼し、私は足早に夜会の会場を後にした。

 胸の中にあるのは絶望ではなく、重い鎖から解き放たれたような圧倒的な解放感だった。

 ***

 夜会を抜け出し、伯爵邸の自分の執務室に戻った私は、テキパキと荷造りを始めた。

 持っていくのは、最低限の着替えと少しの路銀だけ。

 そして、執務デスクの中央に、分厚い革張りのファイルを数冊、ドスンと積み上げた。

 これこそが、私が数年かけて完璧に整えた『バルトア伯爵領・経理および物流の引き継ぎ資料』である。

「青い付箋は今月末までに商人ギルドへ支払う買掛金のリスト。赤い付箋は、来月王都へ納品予定の特産品の出荷スケジュール。黄色い付箋は……冬の備蓄用の小麦の手配先ね」

 前世の営業事務としての矜持が、投げ出すことを許さなかった。

 どんなクソ上司相手でも、引き継ぎだけは完璧に残して去るのが、一流のバックオフィス人材である。

 この資料さえ読めば、例え能力の低い文官でも、なんとか領地を回すことができるように極限までわかりやすく図解してある。

「……まあ、あの男が読むとは思えないけど」

 エドワードは書類を憎んでいる。活字を見るだけで不機嫌になる男だ。

 私は資料の一番上に『重要:明日必ずご確認ください』というメモを残し、執務室の鍵を机に置いて、屋敷の裏口から抜け出した。

 ――数時間後、夜会から上機嫌で戻ってきたエドワードは、私の執務室に入るなり、机の上の分厚いファイルを見て舌打ちをした。

「なんだこの紙の山は! あの女、最後まで私に嫌がらせをするつもりか。目障りな!」

 エドワードは、私が命を削って作った完璧な引き継ぎ資料(領地の生命線)を、一切ページを開くことなく抱え上げ、そのまま赤々と燃える暖炉の中に放り投げた。

「ふん、こんなゴミなど不要だ。明日になれば、優秀な文官がもっとスマートな書類を作ってくるさ」

 パチパチと音を立てて、青や赤の付箋が灰になっていく。

 それが、バルトア伯爵領の物流と経理が完全に停止し、破滅へのカウントダウンが始まった瞬間であったことを、彼は知る由もなかった。

 ***

 ガタゴトと、車輪が石畳を鳴らす音が響く。

 私は今、国境近くの辺境へと向かう夜間乗合馬車の隅に揺られていた。

 身分証明書も奪われ、ただの平民となった私だが、不思議と不安はなかった。

「あー……肩が軽い。徹夜しなくていいって、最高だな」

 窓の外の星空を見上げながら、大きく伸びをする。

 これからは誰のためでもない、私のために生きよう。美味しいものを食べて、暖かいベッドで眠り、のんびりとしたスローライフを送るのだ。

 そう決意した瞬間だった。

『ピロリン♪』

 突如、頭の中に軽快な電子音が鳴り響き、目の前の空間に半透明の青いスクリーンが浮かび上がった。

「え……? なに、これ……」

 目をこすっても、スクリーンは消えない。

 そこには、見慣れた現代の『大手ネット通販サイト』にそっくりなインターフェースが表示されていた。

【善行システム型ネット通販が起動しました】

【ユーザー:ヒカリ様の生体認証を完了】

【前世および今世での『人知れぬ善行(無報酬での業務代行、他者のミスのカバー、気配り等)』を査定中……】

【査定完了。現在の保有善行ポイント:50,000P】

【優良顧客のヒカリ様、ようこそ。当店ではあらゆる現代の品物を取り揃えております】

 画面には、前世でよく買っていたコンビニのスイーツから、最新の防寒具、さらには常備薬まで、ありとあらゆる現代日本の商品が並んでおり、それぞれの価格が「ポイント(P)」で示されていた。

「これって……私が前世と今世で、報われずに頑張ってきた『裏方の仕事』が、ポイントになってるってこと……!?」

 誰も見ていなかったはずの私の努力が、こうして目に見える形で還元されたことに、私は思わず涙ぐんでしまった。

 神様は、見ていてくれたのだ。

「ふふっ……5万ポイントもあるなら、当分は食うに困らないわね」

 私はスクリーンの『食料品カテゴリー』をスクロールしながら、これからの自由な第二の人生に胸を躍らせた。

 この時の私はまだ知らなかった。

 この『善行通販スキル』と、私の染み付いた『営業事務としての段取り力』が、行き倒れの神獣を救い、物流が崩壊した公爵領を大繁栄させ、果ては氷の魔王と恐れられる冷徹公爵様に全力で溺愛(囲い込み)される結果になることを。

 そして、私を無能と切り捨てた元婚約者が、自ら引き起こした『事務・物流の崩壊』によって地獄を見ることになるということも――。

読んでいただきありがとうございます。

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