第二章 お茶会という名の異業種交流会
不穏な招待状は『他社からのクレーム対応』です
社員食堂の設立、さらには画期的な農業改革の成功を経て、ヴァルトブルク公爵領の行政棟は、今やこの世界で最もホワイトな労働環境へと進化を遂げていた。
「きゅぅ、きゅいん!」
「はいはい、コハク。お仕事のご褒美ですよ。はい、無添加ササミジャーキー」
筆頭政務補佐官としての私のデスクの特等席。そこには、すっかり行政棟のマスコット兼私の癒やし担当として定着した、神獣のコハクがちょこんと座っていた。私が【善行通販システム】で密かに購入した高級おやつを差し出すと、コハクは短い尻尾をプロペラのように激しく振りながら、美味しそうにそれを咀嚼している。もふもふの毛並みは今日も最高の手触りだ。これぞ究極の職場環境、これぞ至高の福利厚生である。
「ヒカリ様、今週の業務効率化レポートをお持ちしました。……いやはや、本当に驚くべき数字です」
書類の束を抱えたギデオン長官が、感嘆の息を漏らしながら私のデスクへと近づいてきた。
彼が提示したデータによれば、農業システムの自動化によって領内の食料自給率は爆発的に向上。それに伴い、行政棟へ持ち込まれる領民からの困り事や陳情は劇的に減少していた。
「素晴らしいですね、ギデオン長官。文官たちの平均残業時間はほぼゼロ、有給休暇の消化率も今月は九十八パーセントを達成しています。これなら『ブラック辺境領』なんて不名誉な噂も、完全に払拭できたと言って良いでしょう」
「すべてはヒカリ様のおかげです。あなた様が来てから、この領地は文字通り生まれ変わりました。今や王都の役人たちが、こぞって我が領への転職を希望しているという噂まであるほどですよ」
ギデオン長官は誇らしげに胸を張る。私はその言葉に満足感を得ながら、淹れたてのハーブティーを口に含んだ。前世での社畜時代、過労死寸前まで馬車馬のように働かされていた自分が、まさか異世界で理想のホワイト企業(公爵領)を作り上げることになるとは、人生とは本当に分からないものである。
――しかし。そんな平和で完璧なオフィスに、あまりにも場違いな『毒』が持ち込まれたのは、その直後のことだった。
「ひ、ヒカリ様……! 大変です! たった今、王都からの定期魔導便で、このようなものが届きました……!」
一人の若い文官が、まるで呪いのアイテムでも扱うかのように、おそるおそる一通の手紙を私のデスクに置いた。
それは、一般の事務手続きで使われる無骨な羊皮紙とは明らかに一線を画していた。金縁の刺繍が施された豪奢な封筒。封蝋にはどこかで見たことがある不愉快な紋章が押されており、そこからは鼻を突くような、あまりにも過剰で挑戦的なバラの香水が漂っている。
私は眉をひそめながら、その封を切り、中身の便箋に目を通した。
『拝啓 寒冷の地にて、たかが平民の身でありながら、公爵閣下の政務をいささか手伝っていると噂のヒカリ様へ。
日頃の辺境での泥臭い労働、さぞやお疲れのこととお察しいたします。つきましては、王都の社交界の洗練された空気を味わっていただくべく、我がガルシア侯爵家が王都別邸にて主催する、ささやかなお茶会へとご招待差し上げます。
名誉ある王都の令嬢方が集う席です。辺境の事務員としての見聞を広げる、またとない機会かと存じます。まさか、王家直属たる我が侯爵家からの慈悲深いお誘いを、無礼にも拒絶されるようなことはございませんわよね? お会いできることを心待ちにしておりますわ。 かしこ。
ガルシア侯爵家令嬢、イザベラ・フォン・ガルシアより』
「……なるほど」
読み終えた瞬間、私の脳内にあるビジネスフィルターが、この文面を即座に翻訳した。
差出人はイザベラ・フォン・ガルシア。先日、この行政棟に乗り込んできて、労働基準法違反のブラック奴隷契約で私を引き抜こうとし、最終的にアレクセイ様に物理的かつ政治的に叩き潰された強欲財務卿、ガルシア侯爵の愛娘である。
つまり、この手紙の真意はこうだ。
『先日は我が父によくも恥をかかせてくれたわね。氷の公爵の目が届かない王都の別荘へ単身でおびき出し、私の人脈を使って、お前を徹底的に精神的・社会的にハラスメント(吊るし上げ)してやるから覚悟しろ』
「ヒカリ様、これは明らかな罠です……!」
ギデオン長官が、顔を真っ青にして机を叩いた。
「ガルシア侯爵は王都でも非常に執念深いことで有名です。前回の引き抜き工作の失敗を根に持ち、今度は令嬢たちの社交界という、公爵閣下の力が及びにくい戦場でヒカリ様を陥れようとしているに違いありません! このような無礼な呼び出し、即座にシュレッダー……いえ、破棄すべきです!」
フロア中の文官たちも、一斉に不安そうな、そして怒りに満ちた視線をこちらに向けている。
だが、前世で数々の理不尽なクレーマーや、敵対企業の嫌がらせ対応をこなしてきた元一流社畜の私は、至って冷静だった。
「いいえ、ギデオン長官。ビジネスにおいて、敵対的勢力からの直接交渉(呼び出し)を無視するのは悪手です。ここで逃げては『ヴァルトブルク公爵領は王都の派閥を恐れて引きこもった』と、我が社のブランドイメージに傷がつきます」
「ぶ、ブランドイメージ、ですか……?」
「ええ。これは、いわゆる『競合他社からの不当なクレーム、および市場独占を狙った牽制工作』です。相手がどのようなカード(嫌がらせ)を握っているのか、その仕様を明確に把握しなければ、根本的なリスクマネジメントはできません。したがって、私はこのお茶会に『出張』として出席します」
「何を出張するつもりだ、ヒカリ」
その時、地鳴りのような低い美声がフロアに響き渡り、室内の温度がスッと数度下がった。
執務室の重厚な扉を開けて姿を現したのは、我が社の最高経営責任者(CEO)にして、この領地を統べる氷の魔王、アレクセイ・フォン・ヴァルトブルク公爵閣下だった。
相変わらず、神々しいまでの銀髪と、冷徹でありながら酷く端正な顔立ちをしている。だが、その青い瞳は、私のデスクの上にある手紙を捉えた瞬間、極寒の吹雪のような鋭さを帯びた。
「……ガルシアの紋章か。奴の娘が、君に何の用だ」
アレクセイ様は長い脚で迷いなく私のもとへと歩み寄り、デスクの上の招待状をひったくるようにして目を通した。数秒後、彼の手から放たれた凄まじい冷気によって、高級な羊皮紙がパリパリと白く凍りついていく。
「ふざけた真似を。内容を見るまでもない、ただの嫌がらせだ。ヒカリ、君がこんなくだらない場所へ行く必要はない。この招待状ごと、ガルシアの家系を私が物理的に凍結させてやろう」
「ああっ、アレクセイ様、公務の書類の上で冷気を放たないでください! 結露でインクが滲みます!」
私は慌てて、凍りついた手紙をデスクの端へと退けた。本当に、この過保護なボスは私のことになるとすぐに主戦論を唱えるのだから困ってしまう。
「アレクセイ様、落ち着いてください。先ほども長官に申し上げた通り、これは我が領の今後の外交戦略における『市場調査』なのです。ガルシア派閥が現在、どのような動向を見せているのか、私が直接敵陣に赴いてデータを収集してまいります」
「駄目だ。王都の社交界は、文字通り狐と狸の化かし合いの場だ。平民である君をそんな場所に一人で行かせれば、どのような卑劣な罠に嵌められるか分かったものではない。私の目が届かない場所で、君に傷一つでもつけられたら……私は、世界を滅ぼしかねん」
アレクセイ様は私の肩をがしっと掴み、逃がさないと言わんばかりの強い力で引き寄せた。その瞳には、冗談抜きで世界を数個ほど滅ぼしそうな、暗く深い独占欲と心配の情念が渦巻いている。
「……どうしても行くと言うのなら、私も同行する。私は君の『婚約者』だ。我が公爵家の未来の女主人が、あのような有象無象の巣窟に侮られるのを、指をくわえて見ているわけがないだろう」
(おお、さすがはアレクセイ様。カモフラージュ用の『偽装婚約』という設定を、対外的な交渉材料として完璧に使いこなしていらっしゃるわ! トップ自らがボディーガードとして同行してくれるなんて、なんと手厚いトップマネジメントかしら!)
私は彼のビジネスライク(だと思っている)なプロフェッショナル精神に、深く感動した。
「ありがとうございます、アレクセイ様! CEO直々の同行があれば、これ以上の心強い味方はありませんね。では、二人で王都へ出張――」
――ピキィィィィンッ!
その瞬間、デスクの脇に置かれていた緊急連絡用の『魔導通信具』が、激しい赤色の光を放ちながら、けたたましい警告音を鳴らし始めた。
ギデオン長官が慌ててその魔導具を起動すると、空間にホログラムのような文字が浮かび上がる。そこには【王宮・最高政務会議からの緊急招集。北部の防衛および魔獣の異常動向に関する、国王陛下直々の緊急リモート会議。ヴァルトブルク公爵の出席を義務付ける】と、厳格な命令が刻まれていた。
「なっ……!? なんというタイミングだ……!」
ギデオン長官が絶望の声を上げる。
会議の予定日時は、なんとイザベラ令嬢のお茶会の時間と、寸分の狂いもなく完全に重複していた。
「……チッ」
アレクセイ様が、私の前では決して見せないような、酷く凶暴で冷酷な舌打ちを漏らした。彼の周囲の空間から、今にも行政棟全体を氷河期に陥らせそうなほどの圧倒的な魔力が吹き荒れる。
「国王め、よりによってこのタイミングでくだらない会議を……。通信具ごと、王宮を叩き潰してくる」
「公爵様、ストップです! 国家レベルの重要会議(全社会議)を私情で欠席するのは、重大なコンプライアンス違反です! 公爵領の信用に関わります!」
私は必死になって、今にも物理的に暴走しそうなアレクセイ様の腕を掴んで引き留めた。
「大丈夫です、アレクセイ様。ここは役割分担(タスクの切り分け)をしましょう。アレクセイ様は公爵としての最重要任務である『王宮会議』に集中してください。そして、ガルシア派閥への『クレーム対応(お茶会)』は、筆頭政務補佐官である私が単独で処理してまいります」
「しかし……!」
「心配はいりません。私には、心強い『SP』がついていますから」
私がそう言って視線を向けると、デスクの上でササミジャーキーを完食したコハクが、短い足をピンと伸ばして胸を張った。
「きゅきゅいん!(ボクに任せるのですよ、ご主人!)」
「コハクもこう言っています。それに、私もただ大人しくハラスメントを受けるつもりはありません。通販システムを使って、万全のセキュリティ対策を講じて向かいます。ですから、アレクセイ様は安心して社長の仕事をこなしてください」
私が真っ直ぐなビジネスの瞳で訴えかけると、アレクセイ様は激しい葛藤の末、ようやく肩の力を抜いた。だが、その表情には、今にも泣き出しそうなほどの悔しさと、私に対する異常なまでの執着が滲み出ている。
「……分かった。君の仕事に対する誇りを、私が邪魔するわけにはいかないな。だが……約束してくれ、ヒカリ」
アレクセイ様は私の両手をそっと包み込み、その大きな手のひらで、壊れ物を扱うように愛おしそうに握りしめた。彼の顔が、吐息が触れ合うほどの至近距離まで近づく。
「会議が終わり次第、私は最速で君の元へ駆けつける。影武者を立ててでも、一秒、いや、零点一秒でも早く、君をその忌々しい別荘から連れ戻しに行く。だから……絶対に無茶はせず、私を信じて待っていてくれ」
「了解です! 定時退社(早期解決)を目指して頑張りますので、アレクセイ様も会議、定時で上がってくださいね!」
私が元気にビジネスライクな返答を返すと、アレクセイ様は切なげに微笑み、私の額にそっと、誓いを立てるような甘いキスを落としたのだった。
***
所変わって、王都の一等地。豪華絢爛なガルシア侯爵家の別邸。
薔薇が咲き乱れる美しい庭園に面した、最高級の調度品で飾られたサロンでは、すでに数多くの貴族令嬢たちが集まり、華やかな笑い声を響かせていた。
その中心に座るのは、ひときわ派手で傲慢なドレスを身にまとった縦ロールの令嬢――イザベラ・フォン・ガルシアである。
「おーほっほっほ! 皆様、聞いてくださいませ。今日の特別ゲストは、あの辺境の泥臭い土地で、事務員などという卑しい労働に明け暮れている、哀れな平民の小娘ですのよ?」
イザベラが扇子で口元を隠しながら嘲笑うと、取り巻きの令嬢たちからもクスクスと下品な笑い声が漏れた。
「まあ、お可哀想に。平民の分際で、氷の公爵閣下に少し重用されたからと、自分が貴族の仲間入りをしたと勘違いされているのかしら?」
「イザベラ様、そんな品性のない田舎娘を、この神聖なお茶会に招くだなんて、サロンの空気が汚れてしまいますわ」
令嬢たちの言葉に、イザベラは満足そうに目を細め、手元の紅茶を一口啜った。その瞳には、昏い復讐の炎がパチパチと燃え盛っている。
(おのれ、生意気な平民の小娘が……! お前のおかげで、お父様は王都の役人たちの前で大恥をかき、我がガルシア家の権威は失墜しかけているのよ……!)
イザベラは、父親であるガルシア侯爵から、行政棟での出来事をすべて聞いていた。平民の娘に、労働基準がどうの、基本給がどうのと正論で論破され、最終的にヴァルトブルク公爵の冷気によって命からがら逃げ帰ってきたという、一族の最大の恥辱を。
(今回の会議の件は、事前にお父様の手の者を使って、王宮から公爵を呼び出させるように仕向けたわ。今頃、あの恐ろしい公爵は身動きが取れないはず……。つまり、あの小娘を守る盾は、王都のどこにも存在しない!)
イザベラは、冷酷な笑みをその唇に浮かべた。
「ふふ、せいぜい楽しみに待っていることよ、ヒカリ。氷の公爵様がいないこの王都の地で、平民であるお前がどれほど無力で、惨めで、恥ずかしい存在であるか……その身にたっぷりと、教えて差し上げますわ!」
不敵に笑うイザベラの邪悪な声が、華やかなサロンに響き渡る。
完全にアウェイの敵陣へと単身で赴くことになったヒカリ。しかし、彼女が【善行通販システム】という前代未聞の武器を携え、さらなる規格外の無双を演じることになるとは、この時のイザベラはまだ、知る由もなかったのである。
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