EP 14
王都からのブラックな引き抜き工作は『労働基準法違反』で論破します! 〜激怒した公爵様が「未来の妻だ」と宣言して全方位を威圧しました〜
荒野を黄金色の小麦畑に変えた農業改革から、数週間が経過した。
ヴァルトブルク公爵領は、社員食堂とリフレッシュルームを備えた最強のバックオフィス(行政棟)と、豊かな食料供給網を手に入れ、まさに我が世の春を謳歌していた。
……しかし、出る杭は打たれるのが世の常である。
「たのもーう! 王家直属、財務卿ガルシア侯爵様の御成りである!」
ある日の午後。
平和な執務フロアに、けたたましい怒号と、金属の鎧が擦れる音が響き渡った。
バンッ! と無礼な音を立てて扉を開け放ち、十名ほどの近衛騎士を引き連れて踏み込んできたのは、派手な絹の服を着た恰幅の良い中年の貴族だった。
「ひ、ヒカリ様。あれは王都の財務卿、ガルシア侯爵です。非常に強欲で、他人の手柄を横取りすることで有名な……」
ギデオン長官が、私の後ろに隠れながら小声で教えてくれる。
ガルシア侯爵はフロアをねっとりとした視線で見回すと、私の前でピタリと足を止めた。
「ほう。お前が最近噂になっている『実務の聖女』か。田舎娘にしては、小綺麗にしているではないか」
「初めまして、ガルシア侯爵様。ヴァルトブルク公爵領、筆頭政務補佐官のヒカリと申します。本日はどのようなご用件でしょうか?」
私がビジネススマイルを浮かべて対応すると、侯爵はニヤリと傲慢な笑みを浮かべ、一枚の羊皮紙をテーブルに叩きつけた。
「喜べ、平民の娘! この私直々に、お前を王都の財務省へ引き抜いてやろう! 辺境の雪国などでくすぶっているよりも、王都の私の下で働く方が、お前にとっても名誉であろう?」
フロアの空気がピリッと張り詰める。
ギデオン長官をはじめとする文官たちが、怒りで拳を握りしめているのがわかった。
「……引き抜き、ですか」
「そうだ! お前のような優秀な人材は、国のために24時間体制で働く義務がある! さあ、すぐに荷物をまとめろ!」
私は叩きつけられた羊皮紙(雇用契約書らしきもの)を手に取り、スッと目を通した。
そして、盛大なため息を吐いた。
「侯爵様。この条件で、私が頷くとでもお思いですか?」
「な、なんだと?」
「突っ込みどころが多すぎます。まず第一に『基本給』の記載がありません。名誉だけで飯が食えるとでも? 第二に『勤務時間:王家が求める限り』。これは明白な36協定違反……いえ、完全な奴隷契約です。第三に『福利厚生:なし』。有給休暇はおろか、社員食堂の記述すらない。こんな劣悪なブラック企業、今の私なら一秒でお断りです!」
私の正論(現代の労働基準法ベース)の連射に、ガルシア侯爵は顔を真っ赤にして激昂した。
「き、貴様ぁっ! 王家からの名誉ある誘いに対し、金や休みの文句をつけるとは何事だ! たかが平民の分際で、貴族たる私の命令に逆らうというのか!」
「雇用契約は労使の合意によって成り立つものです。身分を盾にした不当な強制労働は、労働基準監督署……いえ、この領地の法律では認められておりません」
「ええい、黙れ黙れ! 近衛騎士ども、この生意気な小娘を捕らえろ! 無理やりにでも王都へ連行するのだ!」
侯爵の号令と共に、十人の近衛騎士たちが剣を抜き、私に向かってにじり寄ってきた。
文官たちが「ヒカリ様をお守りしろ!」と立ち上がろうとした、その時である。
――ピキィィィィンッ……!!
執務フロアの温度が、一瞬にして急降下した。
いや、比喩ではない。窓ガラスには分厚い霜が張り付き、近衛騎士たちが構えた剣の刀身が、カチンと音を立てて白く凍りついたのだ。
「ひっ……!? な、なんだこれは……!」
「冷たっ!? 剣が、腕に張り付いて……!」
「――私の領地で、私の大切な部下に剣を向けるとは。王家の犬どもは、随分と命知らずな真似をしてくれる」
絶対零度の声。
フロアの奥、執務室の扉から姿を現したのは、氷の魔王たるアレクセイ・フォン・ヴァルトブルク公爵、その人だった。
彼の青い瞳は、極寒の吹雪よりも冷酷な殺気を放ち、一歩歩みを進めるごとに、床の絨毯がパリパリと凍りついていく。
「こ、公爵閣下……! これは王家からの正当な要求であって……!」
「黙れ」
アレクセイ様が一瞥しただけで、ガルシア侯爵の顎から下のアゴヒゲが凍りつき、彼は「ひぃっ」と情けない悲鳴を上げて後ずさった。
「彼女は私の領地の至宝。王家であろうと、誰一人として指一本触れることは許さん。それに――」
アレクセイ様は私の隣に立つと、私の肩を力強く抱き寄せた。
そして、フロアにいる全員に響き渡る、堂々たる声で宣言したのだ。
「彼女は、いずれヴァルトブルク公爵家の『女主人』となる女性だ。平民だからと見下し、無理やり連れ去ろうとした罪、決して軽くはないぞ」
「「「…………えええええええっ!?」」」
凍りついていた近衛騎士たちとガルシア侯爵、そしてギデオン長官たちまでが、一斉に目玉を飛び出させて絶叫した。
一番驚いているのは、もちろん私である。
(お、女主人!? 公爵夫人ってこと!? いやいや待って、これはきっとアレだわ! 王家からの強引な引き抜きを防ぐための、偽装結婚……つまり『節税対策』や『ペーパーカンパニーの役員登記』みたいな高度な政治的駆け引きね!!)
私の社畜フィルターは、いかなる甘い言葉も「業務上の必要性」に変換してしまう恐るべき防壁を備えていた。
「わ、わかりました! そういうことなら、私も話を合わせます!」
私が小声で囁き、アレクセイ様の腕にキュッと寄り添うと、アレクセイ様の冷たかった表情が一瞬だけ驚きに見開かれ、次いで、酷く甘く、蕩けるような笑みに変わった。
「こ、公爵家を敵に回すとあれば、話は別だ……! おのれ、覚えておれ!」
ガルシア侯爵は完全に戦意を喪失し、凍りついた剣を捨てた近衛騎士たちと共に、逃げるように行政棟から転がり出ていった。
嵐が去った後のフロアには、沈黙が降りていた。
「……あ、あの、アレクセイ様? もう敵は去りましたし、離していただいても……」
「いや、まだだ。彼らがいつ戻ってくるかわからないからな。それに、先ほどの君の返事……『話を合わせる』と言ったな。あれは、私の妻になる覚悟ができたと受け取っていいのだろう?」
「えっ? あ、いえ、それはあくまで契約上の……書類上の手続きとして……」
「私は、本気だが?」
アレクセイ様の顔が間近に迫り、その青い瞳が、逃げ場のない熱を帯びて私を射抜いた。
背中を抱きしめる腕の力が強くなり、彼の整った唇が、私の耳元で甘く囁く。
「君の望む労働環境は、生涯にわたって私が保証する。だから……私の隣から、絶対に離れないでくれ」
これは、福利厚生? それとも、終身雇用契約?
ぐるぐると混乱する私の頭はショート寸前になり、周囲で「公爵夫人、万歳!」「これでヒカリ様は永遠に我々のものだ!」と狂喜乱舞する文官たちの声すら、遠くに聞こえる始末だった。
王都からの引き抜き工作という危機は去った。
しかし、私を取り巻く環境は、ブラック企業どころか、甘すぎて息もできない『極上の溺愛包囲網』へと、完全に移行してしまったのである。
読んでいただきありがとうございます。
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