29. 弱点
密閉された地下の空間に、黴臭さと血の匂いが澱のように立ち込めている。
空気が重い。
呼吸をするたびに、その匂いが喉の奥にまとわりついた。
血だまりに映る歪んだ自分、見慣れたはずの少女の顔。
それを見た瞬間、頭の芯からすっと冷えていくのを感じた。
なんだろう、この感覚。
急速に、地面が遠のいていくような。
まさか……俺、今さら人を殺したことに動揺している?
馬鹿な。
前にも普通に人は殺しているだろう。
現に、今さっき目の前に転がるポートマンの死骸を見下ろして、確かな愉悦に浸っていたはずだった。
それなのに、急に足元の感覚が薄れ、視界がぐらりと傾ぐ。
「総代、如何なさいました?」
倒れそうになる俺を、背後から支えるシグ。
「ここは空気が悪い。ちょっと外に出たいな」
「は? ですが、まだここでやることは終わっていませんが」
「ん? ああ、うん。そうか。……そうだな」
自分の声が、自分のものでないように聞こえた。
俺のフワフワした返答に、シグが眉をひそめ、困惑の色を隠せずにいる。
駄目だ、しっかりしろ。
自分の足でしっかり床を踏みしめ、深く息を吐いて気持ちを落ち着かせる。
案外あっさりと立て直すことができた。
頭の靄が晴れていくと同時に、今しがた起こった現象にもすとんと理屈がつく。
ああ、そうか。
血溜まりに反射した自分の姿を、見てしまったからか。
魔眼を開いた状態で自分を見ると、こうなるのわけだ。
まさか魔眼の効能が術者自身にまで適用されるとは思ってもみなかった。
これは、割とクリティカルな弱点だ。
鏡でも水面でも、自分の姿を映すものを不用意に覗き込めば、たちまち動きも思考も鈍る。
今まで一度も想定していなかった穴だった。
でも、待てよ。
覚醒式の日、エリガド爺さんから渡された手鏡で自分の目を覗き込んだときは、何ともなかったはずだ。
あれは、すぐに鏡が割れたからか?
それとも条件が違うのか?
それとも、まさか。
今、人を殺した自分の姿に、無意識のうちに怯えていた……?
その可能性が頭を過った瞬間、俺は即座に首を振ってそれを追い払った。
いいや、下らん。
俺の場合、恐怖などではなく、ただ自分に魅了されただけに違いあるまい。
なにせ俺は、自分のことを正真正銘の美少女だと信じているし、多少どころではないナルシストの自覚もある。
乳がない以外は、スタイルだって悪くない。
顔だって、文句なしに良い。
うん、うん。
実に道理が通っている。
「それはさておき、マリオ」
思考を切り替え、倒れ伏したポートマンを何とも判じ難い顔で見下ろしているマリオに声をかけた。
「なんですかな。お嬢さん」
「雇い主を殺しちまって悪かったな」
「仕方ありません。この世界は弱者こそが悪。アナタよりも旦那様が劣っていたというだけのこと」
ずいぶんとドライな男だ。
仮にも主と仰いでいた相手だろうに、声にも表情にも一切の未練が滲まない。
この男にとって、ポートマンという人間はその程度の重みしか持っていなかったということか。
「改めてもう一度聞くが、お前は祀ろわぬ教会のメンバーで合っているな?」
「……大変申し訳ありませんが、その件についてここで話すわけにはいきませんな。他のお客様も見ておりますので」
マリオがちらりと視線を流した先には、俺がポートマンを殺す様を目撃し、恐慌をきたした客たちの姿があった。
「ベルベット様! ど、どうか命だけは!」
「も、もう裏市には関わりません! ですから今回だけは、どうかお見逃しくださいまし!」
「お、終わりだ……殺される……」
階段の向こうからも「ここか、出せー!」という怒声混じりの声が響いてくる。
マリオがしっかりと扉を閉めているおかげで、地下室から逃げ出すことすら誰にも叶わないようだった。
あの馬鹿げた仕掛けの隠し扉を、自力でこじ開けるだけの力を持つ客など、ここにはひとりもいまい。
ふむ。
どうやら何か、盛大な勘違いをされているらしい。
「落ち着け。お前たち、俺が裏市で奴隷売買をしていることを咎めに来たとでも思っているんだろう」
「おや、違うのですか?」
反応を返したのは客ではなく、マリオだった。
「全然違う。俺はむしろ、裏市の奴隷売買に自ら参入するつもりでここへ来たんだ」
「それは、今後は新しくお嬢さんの御家で裏市を取り仕切る、という話ですかな?」
「違う違う。あくまでもこの件の首謀者は俺個人。我が家の人間は一切関係ない」
マリオが指先でポリポリと頬を掻く.
何か考え込む時の癖らしい。
「アナタが普通の御令嬢であれば、何をふざけたことを、と笑って済ませるところですが……」
「よかったな。冗談ではなく大真面目に言ってる。今日をもって、この会場の支配者は俺だ! ……ってことを祀ろわぬ教会の人間に伝えたかったんだけど。お前、あの組織の人間じゃないのか?」
「……」
返ってきたのは沈黙だった。
どうあっても、人前で組織への帰属を明言することはできないらしい。
裏社会で確かな幅を利かせているだけあって、それなりに厳格な戒律のようなものが敷かれているのだろう。
予想はしていたが、厄介なほど統率の取れた組織だ。
ダールトンを手駒として送り込み、内偵を続けさせるようになってから、それなりの時間が経った。
それでもなお、全貌はいまだ見えてこない。
内部の人間ですら実体の規模を把握し切れていない、王国最大の闇組織。
楽しませてくれるじゃないか。




