30. 転変
「マリオ、お前はこれからどうする気なんだ? 俺の質問に答えないってことは、俺はお前を敵対意思の残る敵と捉えることになるんだが」
「見ての通り、敵対意思はないのですがね」
マリオは両掌をこちらに向け、道化じみた仕草で肩をすくめる。
「私ではお嬢さんに挑んでも細切れにされるのが目に見えているでしょう。それは困る」
「お前、自分の命が最優先な人間っぽいものな」
「もちろんですとも。裏社会で長く生き残るために最も重要なのは、あらゆる物事の優先順位を自分自身に定めることです」
「そりゃあ裏も表も関係ないだろ」
「ハハッ、確かに……」
乾いた笑い声がホールの高い天井に吸い込まれていく。
マリオは本当にもう何も抵抗する意思がないのか、一歩たりとも動かさない。
もう逃げる気もない。
あとはお好きにどうぞ。
そんな諦観が、彼の姿から透けて見えた。
「そこまで諦めているなら組織のこともゲロッっちまえよな」
「それではここを生き延びたあとに、私は殺されてしまいます」
「でも、もうお前に残っている道は、この場で俺に殺されるか、後で組織の人間に追われるか。二者択一だぞ」
「同じ結果になるのでは二択になっておりませんよ」
マリオは初めてわずかに口角を上げた。
「お嬢さん、私はね、今この場で話す気はないと言っているだけなのですよ」
「場所を変えたいってことか?」
「あるいは、この場にいるアナタの関係者以外をクズ肉にするかですな」
その言葉には、抑揚のなさが逆に恐ろしいほどの実行力を滲ませていた。
冗談を言っているようで、目だけは笑っていない。
マリオはチラリと出入口のあたりに溜まってる観客を見る。
それだけでホールに絶叫が木霊した。
「やめてくれぇ!」
「やっぱり、ここで殺されるんだわ……」
「金ならある! どうか命だけは!」
悲鳴が幾重にも重なり、耳障りな不協和音となって天井に反響する。
俺のもとまで這うようにして駆け寄り、床に額を擦りつける者。
開くことのない扉に群がり、互いを押しのけながら爪を立てる者。
もはや声も出せず、放心状態でその場にへたり込んだまま、口だけをぱくぱくと動かす者もいる。
恐怖が、会場を渦を巻く。
なんとも哀れな姿だが、この場の人間は漏れなく全員クズ。
もちろん、俺含め。
同情の余地はない。
これまで散々他人の人生を玩具にしてきた輩たちだ、自分にお鉢が回って来ただけのこと。
この先コイツらがどうなろうと自業自得だ。
なんて、俺にこいつらを殺す気はないのだが。
このクズどもは、俺にとって新しい客になるのだから。
「こいつらは生かしておく必要がある。手を出すなよマリオ」
「それでは如何するおつもりで?」
「外野に話を聞かれたくないだけなら、あとで邪魔者が居ない場所を用意してやる」
「そうですか。では、ご随意に」
もうこの場で自分から話すべきことはないと言うように、マリオは一仕事終えた顔で——まるで舞台の幕引きを見届けた役者のように舞台袖に降りていく。
その足取りに、迷いも焦りもない。
「おい、待てマリオとやら」
「どうされました、剣士殿」
「シグだ。覚えておけ」
「……ふむ。まあ、記憶の隅に置いておくとしましょう」
まだ少し棘の残る言葉だったが、もうシグとも戦うつもりはないようで、それだけ答えてマリオは舞台袖の闇に溶けるように消えた。
「シグ、マリオと一緒に下がってろ。ついでに、アイツがこっそり裏口かなんかで逃げたりしないように見張っとけ」
「承知」
軽く頷いて、シグも足音一つ立てずに舞台を降りた。
さあ、これでやっと本題に戻れる。
「さて、残った客はもう一度席に戻れ」
「公爵令嬢だかなんだか知らんが、この吾輩に指図する気かこの小娘が! せっかく楽しみにしていたパーティを滅茶苦茶にしおって! 貴様、この場所を出たら——」
まだ状況が理解できないバカも残っていたようで、カエルみたいな顔の形をした爺さんが、脂汗と唾を撒き散らしながら俺を指差して抗議する。
最後まで話を聞くこともなく、カエル顔の爺さんに向け、俺は手に持っていた鉄棒を無造作に投擲した。
鈍い風切り音とともに、鉄棒はカエル顔の真横、紙一重の位置に深々と鉄棒が突き刺さった。
ツーッと鉄棒が掠ったカエル顔の頬から、一筋の血が滴り落ちる。
爺さんの声は、そこで完全に凍りついた。
「はいはい。静粛に。今から俺の言うことに従わなかった人間は、死にま~す。わかった人は、静かに椅子に座ってください」
水を打ったような静寂が、ホール全体を支配する。
衣擦れの音すら憚られるような沈黙。
もはやこの場に俺に逆らえる人間はいない。
その、優越感に、俺は自分の何かが麻痺しているのを感じていた。
自分の指先が僅かに震える——。
ただ、それでももう俺は止まることはできない。
腹の底から、愉快な笑いが溢れ出る。
灼けつくような、腐ったような甘い愉悦が。
「いいか、よく聞けお前ら。今日からこの裏市の新しいオーナーは俺だ。今後は俺の顧客となり、そして、新しい裏市の宣伝に努めろ。それが、今日この場に居合わせた不運なお前たちに与える、最初の仕事だ」
我が名はベルベット・カースナー。
世界の闇よ、《《わたくし》》に傅け。




