28. 報い
ポートマン伯爵。
王都の裏社会では、その彼を知らぬ者はいない。
表向きは領地経営に励む一貴族として振る舞いながら、その裏で彼が長年にわたり手を染めてきたのは、人を人として扱わない商売だった。
彼の商品——奴隷たちの出所は、決して褒められたものではない。
国境沿いの小村で頻発する盗賊被害。
その実態のほとんどは、ポートマンが息のかかった者たちに命じて引き起こさせた襲撃だった。
村を襲い、若く働ける者だけを選別して連れ去り商品にする。
連れ去られた者たちに待っているのは、劣悪極まる環境だった。
地下に設けられた仮の収容部屋には、まともな寝床も食事も与えられない。
ただ、商品としての見た目を損なわない最低限の世話だけが施される。
人間としての尊厳など、彼の商売には端から必要とされていなかった。
家族は容赦なく引き裂かれた。
むしろ、ポートマンにとってそれは望ましいことでさえあった。
「肉親と離れた奴隷ほど、大人しく従うものですからな」
かつて彼は、取引相手にそう嘯いたことがある。
絆を断ち切られた人間ほど、扱いやすい商品になる——その一点だけを、彼は経験則として熟知していた。
そうして仕入れた奴隷たちは、買い手の好みに応じて振り分けられる。
力仕事に、閨の相手に、あるいはそれ以下の玩具として。
ポートマン自身は、その手を汚すことはない。
彼はいつも、遠くから指示を出すだけだ。
「弱者を弄ぶのは、強者に許された最高の娯楽だ」
その言葉通り、彼は弱者を虐げ、ただ甘い蜜だけを吸い続けてきた。
もちろん、こうした所業が表沙汰になったことは一度もない。
証拠は徹底的に隠滅され、口を割りそうな関係者は金か、あるいは恐怖でねじ伏せられた。
何より、彼の背後には危険な組織の後ろ盾がある。
そう周囲に匂わせるだけで、大抵の追及は立ち消えになった。
こうして幾星霜、ポートマンは裏市という小さな城の主として、他人の人生を商品として弄び続けてきたのだ。
今宵、その報いを受けるまでは——。
なぜだ。
なぜ、こんなことになっている。
ポートマンは壇上から転げ落ちるようにして逃げ、部屋の隅で膝を抱えるようにしゃがみ込んでいた。
目の前では、剣豪と謳われた隻腕の男が、少女の瞬きひとつで無力化され、マリオまでもが降参のポーズを取っている。
マリオという男はポートマンが祀ろわぬ教会から貸し与えられた組織の最高位戦力だった。
それが、攻撃を仕掛けることすら諦めている。
現実感が、まるでない。
今日は、いつもより大金が動くオークションのはずだった。
プレミアム会員だけを集めた秘密の会合。
ダールトンや他の奴隷商から仕入れた上物の奴隷を並べ、上物の匂いに群がる連中から金を搾り取るだけの、いつもの仕事。
それが、なぜこうなっている。
「ポートマンは処分してもいいかもな」
「総代、よろしいのですか?」
「あんなのにウチの新しい事業を任せるわけにいかないだろ。見ろ、今も隅っこでプルプルしてらぁ」
少女の言葉が、やけに鮮明にポートマンの耳に届いた。
——処分。
その一言に、ポートマンの中で何かがブツリと切れる音がした。
彼は、この裏社会で長年かけて築き上げてきた地位がある。
表では王国最大の奴隷商とか言われて鼻を伸ばしてるダールトン。
だが、自分はあのような平民とは格が違う。
知る人ぞ知る真の奴隷商。
闇に生きる者たちの間では確かな力を持つ存在として名を馳せてきたのだ。
そう、ポートマンは自分を評価していた。
だが、ぽっと出の小娘が、まるで路傍の石でも見るような目で、そんな自分を「処分する」と言い放った。
考えるより先に、体が動いていた。
「舐めるなぁぁぁッ!!」
立ち上がりざま、懐から護身用の短剣を抜き放つ。
狙いも間合いも何もない、ただ怒りに任せただけの、稚拙な突進だった。
「だ、旦那様! 正気ですか!?」
マリオの制止の声も、もはやポートマンの耳には届かない。
小娘一人。
相手はたかだか小娘一人だ。
あんなガキ、短剣を突き立ててしまえばそれまでだ——。
ポートマンの血が上りすぎた頭には、そんな粗末な計算だけが支配していた。
結果から言えば、その短剣がベルベットの肌に触れることは一度もなかった。
「死ねガキィィィ!」
「うおっ」
振り下ろした腕を、あっさりと手首で受け流される。
勢い余ったポートマンの体が大きくつんのめった。
「ぐぼぁッ!」
そのまま伸びた顔面に、軽く放たれた掌底が突き刺さる。
鼻の奥で何かが潰れる嫌な感触がして、視界に星が散った。
「ま、まだだ……ッ!」
鼻血を撒き散らしながらも、ポートマンは怯まず二撃目を繰り出そうとする。
だが、その手首は逆に掴まれ、あっさりと捻り上げられた。
「ぎゃあああッ!」
関節の悲鳴じみた音とともに、短剣が床に転がる。
同時に、足払いで体勢を崩されたポートマンは、無様に床へと叩きつけられた。
「あー、うるさい」
気だるげな声とともに、腹に鈍い衝撃が走る。
抵抗する暇もなく、蹴りが二度、三度と体に叩き込まれた。
「ぐ、ぶっ……、や、やめ……」
「お前から来たんだろうが」
軽い、けれど容赦のない蹴りが続く。
まるで邪魔な石ころでも転がすような、そんな気安さで。
プライドも、余裕も、何もかもが体中に打ち込まれる痛みの前に押し流されていく。
悲鳴とも呻きともつかない声を漏らしながら、ポートマンはただ床の上でのたうつことしかできなかった。
「い、いだ……ゆるじ、ゆるじでぐだざい……」
もはや言葉にすらなっていない懇願が、ようやく口をついて出る。
だが、その哀願を聞き届ける者はいなかった。
ベルベットは倒れ伏したポートマンをちらりと見下ろし、退屈そうに息を吐く。
「あー、うん。もういいや」
その一言とともに、床に転がっていた短剣が拾い上げられ——そして次の瞬間には、それがすでに振り下ろされていた。
致命的な一閃。
ポートマンにはもう、何が起きたのかを理解する余力すら残っていなかった。
薄れゆく意識の中、最後に思い浮かんだのは、あの少女の右目だった。
眼帯の下に隠されていた、あの瞳を。
その瞳を見ただけで理解させられる。
真の支配者と、己の差を。
「……あり、えん」
それが、伯爵ポートマンの、最期の呟きだった。
「……随分と派手にやりましたな」
マリオが、倒れ伏したポートマンを一瞥もせず、淡々とそう言った。
ベルベットは肩をすくめて、返り血のついた短剣を無造作に投げ捨てる。
「向こうから突っ込んで来たんだ。正当防衛だろ」
「その割には、随分と楽しそうなお顔でしたが」
「ま、なんかコイツの顔ムカつくし。ムカつく奴を足蹴にするのはスカッとするからなぁ」
動かなくなったポートマンを見下ろしながら、ベルベットは小さく嗤った。




