23. 蜘蛛の糸
◆ レアーナ(レイア)
商品待機所——そう呼ぶにはあまりにも饐えた臭いのする、地下のさらに奥まった小部屋。
アタシを含めた幾人かの奴隷が、そんな場所に集められていた。
石造りの壁はろくに手入れもされておらず、ところどころ黒ずんだ染みが浮いている。
天井から下がるのは、頼りない灯りをひとつだけ落とすランプ。
その光の届かない部屋の隅には、格子で仕切られた小さな檻がいくつも並び、中では言葉にならない呻き声や、鎖の擦れる音が絶え間なく響いていた。
虚ろな目の子供。
見目の良い女。
武人然とした隻腕の男。
アタシと同じ、今日の商品たち。
アタシは冷たい石床に座らされ、後ろ手に手かせを嵌められている。
着せられているのは、粗末な麻の一枚布——もはや服というより、ただの布切れに近い代物だ。
肌に馴染まないその繊維が擦れるたびに、ちくちくとした痛痒さが走る。
首には奴隷であることを示す薄汚れた革の首輪。
素足の裏には、ここまで歩かされた道のりの土埃がこびりついたままだった。
あのクソ女、本当にクソ。
あ~~~本当に最低。
どれだけ悪態を吐いても文句が出てくる。
昔はもっとお淑やかに、誰からも嫌われない理想の皇女として自分すらも騙すことができていたのに。
誰からも嫌われないは嘘ね……。
実の兄にあれだけ憎まれていたのだもの。
実の兄からの裏切り。
母国からの逃走。
隣国、ヴァルトハイムへの不法入国。
そして、スラム街での生活に、裏社会との関り。
あまりにも多くの経験を重ねすぎた結果、アタシは常に何かしらの不平不満と戦っている。
やっぱり人間というのは年を重ねるとともに成長という名の劣化が進むらしい。
特にこのヴァルトハイム王国とかいう場所は、ストレスが多くて加齢による精神の錆びつきが激しいように思う。
ベルベットとかベルベットとかベルベットとか。
たしか十二歳だっけ?
アタシのたったひとつ年上なだけで、あんなにもヤサグレてしまうなんて。
しかも公爵令嬢という恵まれた地位にありながら。
この国は病んでいるとしか思えない。
そんなことを考えていると、部屋の重たい扉がぎしりと軋みながら開いた。
入ってきたのは、恰幅の良い中年の男。
仕立ての良い焦げ茶色のジャケットに、金の懐中時計の鎖を覗かせた出で立ちは、この陰惨な場所には不釣り合いなほど小綺麗だった。
口元にはいつも張り付いたような愛想笑い。
裕福な商人然とした佇まいでありながら、その手には帳簿らしき紙束と、何かの契約書を抱えている。
「ダールトン、だったかしら? アナタ」
目の前の肥え太った男に声を掛ける。
動物に例えるならば豚。
あるいは狸だろうか。
丸みを帯びた輪郭に埋もれた首元は、詰め襟でかろうじて隠されている。
歩くたびに揺れる腹の贅肉が、いかにもこの裏市で甘い汁を吸ってきた人間らしい脂ぎった富を物語っていた。
帝国の宮廷文官に似たようなタイプの男が居た。
有り余る富におぼれ、さらなる欲望の渦に投身する愚者。
せっかく頭が回る癖に、肝心な所で脂肪のつきすぎた脳みそが誤作動を起こして不祥事をおこしたりするのだ。
アタシの知る男は、上級文官という何不自由ない地位を手に入れながらも、自らの愚行によって失脚していった。
でも、目の前の男は少しだけアレとは違う何かを感じる。
その源泉は、彼の目だ。
細められた瞼の隙間から覗く瞳だけが、その恰幅の良さや愛想笑いとは裏腹に、ひどく冷めていた。まるでこの陰湿な部屋の空気にも、檻の中で呻く商品たちにも、欠片の感慨も抱いていないとでも言うような、凪いだ水面のような目だ。
「ええ。私のようなものの名を覚えていただけているとは、光栄ですな」
ダールトンは帳簿を小脇に抱え直しながら、アタシの前に膝を折るように屈み込む。仕立ての良い生地が床の埃で汚れることも厭わない、そんな仕草だった。
これから奴隷として売り飛ばそうとしている相手に対する言葉とは思えない。
「厭に畏まるじゃない」
「アナタ様の出生を考えれば妥当な対応かと。特に、私などはただの平民ですからな」
「…………なんのこと?」
「アナタ様に明かす気がないのならば、私からこれ以上言及する気はありませんよ。私はあくまでもあの御方に与えられた仕事を全うするのみです」
驚いた。
この口ぶり、アタシの出生に本当に気づいている?
でも、いったいどこからそんな情報を?
まさか、ベルベットはずっと前から気づいていた?
「今は、レアーナと名乗っておられるのでしたか?」
「……ええ」
「あまり、ベルベット様に関わらない方が良い。私のように、後戻りができなくなる」
諦めと、哀愁。
ダールトンはそんな目をアタシに向けていた。
「まあ、もう手遅れかもしれませんが」
「どういうことよ?」
「知らなくていい。あるいは、いずれ嫌でも知ることになる」
そう言いながら、ダールトンは手かせを嵌められたアタシの手に、小さな金具のようなものを手渡した。
ぽってりと肉のついた指先には不釣り合いなほど、その動作だけは驚くほど繊細で、音も立てなかった。
彼の手癖の悪さが滲み出ている。
アタシは両手が背中側で結ばれているから、何を握らされたのか目で見ることはできない。
ただ、その感触から渡された物の正体は察することができた。
ダールトンは、口元に人差し指を添え、それ以上アタシが喋ることを制止する。
「あとは、アナタ次第だ」
それだけ言って、彼は重たい扉の軋む音とともに、何処かへ去って行った。
残されたのは、ランプの頼りない灯りと、檻の奥から響く誰かの啜り泣き。
そして、掌の中に残された、小さな金具の感触だけだった。
「ホント、意味が分からないわ……」
目の前に垂らされた蜘蛛の糸。
アタシは、その頼りない糸をどうするべきか、正解のわからない未来のために考え続けた。




