11. とある皇女の足跡
三年前。
ヴァルトハイム王国の隣国、
アレゴール皇国での出来事。
これは、とある皇女殿下の逃走劇である。
夜半、皇宮の回廊に血の匂いが満ちていた。
「レイア様、こちらへ」
侍女に手を引かれ、
皇女レイアは燃ゆる居室から連れ出された。
素足に走る石畳の冷たさも、
背後から迫る足音の恐ろしさも、
まだ十歳の少女には現実感が薄かった。
ただ、握られた侍女の手が震えていることだけが、事態の深刻さを物語っていた。
「——ここにいたか」
回廊の角から現れた影に、レイアは息を呑んだ。
松明の灯りに浮かび上がったその顔は、見知らぬものではなかった。
「……兄上」
第一皇子アルベルトは、剣を提げたまま、まるで庭を散歩するかのような足取りでこちらへ歩いてきた。
その口元には、レイアがよく知る、幼い頃に頭を撫でてくれた時と同じ微笑みが浮かんでいる。
だが今、その笑みの奥にある感情を、レイアは理解したくなかった。
「兄上が……わたくしを、狙って?」
「ああ、そうだ」
「どうしてっ!?」
記憶にある、いつも穏やかな笑みを浮かべる兄の姿はそこにはない。
彼は、妄執に囚われた悪鬼が如く憎々しげにレイアを睨んでいた。
「なぜ、だと? わからんか?」
レイアには本気でわからなかった。
彼女は幼く、そして純粋すぎたのだ。
レイアは家族に好かれようと努力をしていた。
芸を極め、
武に励み、
知を修めた。
それなのに、なぜ?
簡単だ。
「レイア、貴様は優秀すぎる。父上は俺よりも貴様に目をかけている。家臣どもなどは、もう俺から鞍替えして貴様の派閥を盛り立てようと躍起になっているのだ。たかだか、第三皇女でしかない、貴様なんぞのために!」
アルベルトはレイアを恐れた。
所詮は皇位継承権最下位の妹。
だからこそ彼はレイアに優しくできた。
自身の権威を脅かす強大な敵に育つなどとは、かつてのアルベルトは思ってもみなかったのだ。
「わたくしは……アタシは、兄上から皇位を簒奪しようなんて考えてない! だ、だからっ!」
「いいや、ダメだ。ダメなんだよレイア……。お前にその気が無かろうが、もう周りがその気になっている。お前は邪魔なんだ! 俺の、嫌、この国の未来のために!」
アルベルトは、もはや正気ではなかった。
いずれ来る継承権争い。
その最大派閥となりうるレイアをなんとしてでも排除する。
そのために、彼は鬼に堕ちてしまった。
アルベルトは背後に控える黒装束の男へ、ただ小さく顎をしゃくって命令を送る。
——レイアを殺せ。
その瞬間を待っていたと言うように、敵が躍りかかった。
「レイア様!」
割って入ったのは、護衛騎士のガレンだった。
振り下ろされた刃を己が身で受け止め、呻き声一つ上げずに、彼は懐から抜いた短剣を襲撃者の喉へと突き立てる。
二つの体が同時に崩れ落ちた。
「ひっ、ひぃぃ!」
アルベルトは私兵が殺されたことに怯え、まだ幼いレイアに自らの剣で立ち向かうことすらなく逃げ去った。
レイアはその背中を見て、呆気に取られる。
だが、すぐに自分のために倒れた騎士の存在を思い出す。
「ガレン!」
駆け寄ったレイアは、膝に倒れた騎士の頭を乗せた。
傷口からあふれる血が、白い夜着をみるみる赤く染めていく。
「どうして……」
掠れた声でレイアは問う。
「どうして庇ったの。私を助けたって、何にもならないのに。兄上にも……家族からも必要とされない、私のために」
ガレンの唇が動いた。
血の混じった息とともに、言葉が絞り出される。
「……違う……アナタこそ、ふさわしい……」
「え……」
「レイア様……あなたこそが……この国の……」
そこで言葉は途切れた。
閉じられかけた瞼の下で、それでも彼の目は最後までレイアを映していた。
安らかとさえ言える表情だった。
まるで、伝えるべきことを伝え終えた者だけが持つ、静かな満足がそこにはあった。
レイアはしばらく、冷たくなっていく体を抱いたまま動けなかった。
涙は出なかった。
ただ、腹の底に何か硬いものが据わっていくのを感じていた。
——信じてくれる者が、ひとりでもいるのなら。
それだけで、十分だった。
「……行きましょう、レイア様。すぐに次の追手が来ます」
侍女に促され、レイアは静かに立ち上がった。
振り返ることなく、燃える皇宮を背に、彼女は闇の中へと足を踏み出した——。
そして、現在。
国境を越えたレイアは、
名を変え、身分を隠し、
ある国の裏社会へと身を投じていた。
金、情報、そして新しい家臣。
表の世界では手に入らない力を——そこで手に入れる。
かつて自分を守って死んだ騎士の言葉を胸に、彼女は闇の中で静かに牙を研いでいた。
いつか、あの皇宮に戻る日のために。
「ふわぁぁ〜〜〜。よく寝た」
ベッドの上で目を覚ましたレイアは、大きく背筋を伸ばして欠伸をする。
今は牢屋の中なれど、
彼女は再び動き出す準備を着々と進めているのだ。
「今日のご飯は何かしら……。このままベッドでぐーたらしてる生活も悪くないわねぇ」
たぶん、きっと……。
そんな未来もあるかもしれない。




