01. 十二歳
十二歳になった。
現在の俺は、ヴァルトハイム王国第一王子ライン・ヴァルトハイムの婚約者候補ということになっている。
候補と言いつつ、
俺以外の競争馬は不在。
事実上の内定状態だ。
婚約が内々定したのは一年近く前のこと。
俺が行方不明になった例の事件もあって、婚約の打診が来てから話が決まるまで一年近くダラダラと話し合いが間延びしてしまった。
俺と父が揃ってあーだこーだとゴネたのも時間稼ぎになった。
結局、国王陛下とウチの母の結託によって、強制的に話が進められたのだが——。
早朝。
目が覚めて最初に文句が出る。
「あ~~~、めんどくせぇ」
よし、二度寝しよう。
起き上がることなく、
毛布にくるまって寝直そうとする。
——キシッ。
ベッドに軽いものが乗っかる音。
音のした方を見ると、シルヴィアが座っていた。
彼女はまた一段と美しく成長した。
今はもう十五歳だったか。
この国の人間は体の成熟が少し早いのか、
シルヴィアの見た目はもう少女というには大人びている。
長く伸びた銀糸の髪。
くっきりした目鼻立ち。
小さな顔とは対称的に凹凸をアピールしまくる立派なスタイル。
それを見て、今世は男じゃなくて良かったと思う。
こんな爆乳メイドが朝っぱらから枕元に居たら、毎日朝勃ちに悩まされていたことだろう。
「起きてください、ベルベット様」
「嫌だ」
「もう……」
彼女は溜息を吐いて、
さらりと俺の髪を軽く撫でる。
そのまま自分の指に絡めて遊び始めた。
髪いじりが好きなのは昔のままだ。
彼女は相変わらず毎朝俺の髪を好き勝手セットしている。
今日はどんな髪型になるんだろう?
「いけませんよベルベット様。四日後の社交界でライン殿下との婚約を正式に公表するのでしょう? 早めに到着して準備をするために、今日中には王都に向けて出発する約束です」
「俺がいなくても勝手に向こうだけで発表すりゃあいいじゃん。なんで俺が下らない発表会のために、わざわざ王都まで遠出しなきゃなんねぇんだ……」
「それはベルベット様が、将来の王妃になる御方だからでしょうねぇ」
「くだらねぇ。そのうち理由を付けて破棄する婚約だ」
俺のスタンスは変わってない。
王妃なんて柵まみれの面倒くさい立場は御免だ。
権力は欲しいが、権力のために生活を縛られるのでは意味がない。
あくまで俺の目標は好き勝手生きることなのだから。
「この公爵家という肩書きも、いずれ邪魔になれば捨てる。そのための準備は前々から進めているんだ」
「存じておりますよ。ですが、今はまだ公爵家の傘が必要でしょう?」
言いながらシルヴィアは自分の指に絡めた俺の髪の匂いを嗅いでうっとりとした顔になる。
しれっと髪にキスをして頬ずりまで始めやがった。
「知ってるか? 人の髪って意外とバッチィんだぞ」
「ベルベット様に汚い所なんてないです」
「いや、あるだろ」
「ありません」
「あるよ」
「ないです」
ほな、ないか……。
「はぁ……王都に行くためだけに一日が終わると思うと、何もかもがどうでも良くなる。今日という一日がくだらない。やる気が出ない」
うだうだ文句を垂れても意味はない。
わかっている。
しかし、合理性だけで人間の精神はコントロールできないのだ。
そんな俺の現金な思想を良く理解する優秀なメイドから、素晴らしい提案が出た。
「頑張って準備ができたら私の胸を揉ませてあげますよ」
「仕方ない……今日も頑張るか」
おっぱいは正義だ。
女に生まれても、その真理が揺らぐことはなかった。
準備を終えて、鏡を見る。
若干の巻き癖のある長い赤髪が、
揺らめく炎のようにウェーブして耳元から垂れる。
綺麗に編まれた髪が後頭部で複雑かつ整った形のお団子を作っていた。
俺も背が伸びて、今はたぶん150センチくらい。
シルヴィアよりはまだ少し小さいが、毎日成長痛に苦しんでいるから、このまま伸び続ければいずれ彼女の背を越えるかもしれない。
いつだったからか始めた豊乳計画の方も進めているが、誠に遺憾ながら俺の胸は何故か育たない。
母のそれを見て、俺には約束されたエデンの実りがあると信じていたのに。
だというのに、ぺったんこだ。
シルヴィアが十二歳のときにはもう既に立派な果実がそこにあったはずなのだが……。
「世界は不平等だ……」
「公爵令嬢が言うと説得力が違いますね。ベルベット様とそれ以外の人間では、私ごときには計ることすらできない差があることでしょう」
「高度な煽りはやめろ」
「え?」
シルヴィアはよくわかっていないようでキョトンとしていた。
その日、俺は再び王都へと旅立つ。
◆ ◆ ◆
薄暗い朝霧が、王都の郊外を覆っていた。
華やかな白亜の城壁から南東へ二里ほど離れた丘の裾野に、『灰の谷』と呼ばれるスラム街が広がっている。
その街の正式名称など誰も覚えていない。
雨が降れば下水が溢れ、
乾けば埃が舞い、
常に灰のような色をした空気が肺にまとわりつく場所だ。
とある少女の視線が、
ゆっくりとその混沌とした街並みをなぞる。
傾いた木造の掘っ立て小屋が、
まるで寄りかかり合うように密集している。
屋根は腐った藁や錆びた鉄板を無理やり重ねただけ。
風が吹くたびに軋む音が響く。
路地は狭く、人の肩が擦れ合うほど。
地面は固くなった泥と排泄物、
腐った食べ物の残骸が混じり、
足を踏み入れるだけで粘つく感触が靴底にまとわりつく。
「最低な街……」
少女の声が、路地の奥から聞こえてきた。
ぼろ布をまとった体は薄汚れ、
目は大人びた諦観を宿している。
王都の中心では今頃、貴族たちが金糸の刺繍を施した衣装をまとい、豪勢な食事を楽しんでいる頃だろう。
ここでは、そんな贅沢は夢のまた夢だ。
城壁の向こうの光は、谷の住人にとってただの遠い幻影に過ぎない。
時折、鋼鉄の胸当てを着けた王都警備兵の巡回隊が馬を進めてくる。
馬の蹄が泥を跳ね上げ、住民たちは壁際に身を寄せて道を空ける。
兵士たちは決して馬を止めることはない。
話しかけることもない。
ただ、時折冷たい視線を投げて「問題が起きていないか」を確認するだけだ。
彼らにとってこのスラムは、王都という宝石の、必要悪の裏側でしかない。
夕暮れが近づくと、谷は別の顔を見せる。
安酒場から漏れる黄色い灯り、
酔った男たちの笑い声、
女たちの甘ったれた声、
そして時折響く刃物の金属音。
生きるために、
奪うために、
夜の帳が下りる。
ここは王都の影。
光が強ければ強いほど、
影もまた濃くなる場所だった。
少女が一人、まだ路地の奥に佇んでいる。
彼女の瞳には――王都の中心に向かう、かすかな炎が宿っていた。




