(現代エンド) 第ニ話|おかえりなさい
現代エンド|
※こちらは現代を選んだ場合の結末です。
退院してから、少しずつ日常が戻ってきた。
最初は散歩だった。
次は買い物。
そして、家事。
無理はしないようにと何度も言われたけれど、何もしない方が落ち着かなかった。
だからその日も、私は台所へ立っていた。
包丁の音が響く。
まな板の上で人参を切る。
隣では母が、鍋をかき混ぜていた。
味噌汁の湯気が立ち上り、部屋の中へ優しい香りが広がっていく。
「無理しなくていいのよ」
母がこちらを見ずに言う。
私は小さく笑った。
「大丈夫」
そう答えながら、大根を切る。
まだ、少しだけ動きはぎこちない。
それでも、自分の手で料理をしていることが嬉しかった。
ふと気付く。
こうして、母と並んで料理をするのは、いつ以来だろう。
仕事が忙しくなってからは、帰宅しても食べるだけの日が増えていた。
休みの日ですら、電話が鳴れば仕事の話。
気付けば、台所へ立つ時間も少なくなっていた。
母が、鍋の火を弱めながら言う。
「こうしてると昔みたいね」
私は少しだけ手を止めた。
昔。
その言葉に、小さな記憶が浮かぶ。
夕飯の手伝いをした日。
味見をして怒られた日。
弟たちが、台所へつまみ食いに来た日。
どれも当たり前だった。
当たり前すぎて、いつの間にか忘れていた。
「そうだね」
そう返すと、母が嬉しそうに笑った。
夕食の時間になると、父も弟たちも揃った。
久しぶりに、家族全員が同じ食卓を囲む。
「いただきます」
声が重なる。
しばらくは、静かな時間だった。
箸の音だけが聞こえる。
やがて、十歳下の弟が顔を上げた。
「うまい!これ、姉ちゃんが作ったの?」
そう言って、ご飯をかき込む。
その隣で、三歳下の弟も頷いた。
「俺もおかわり」
母が笑いながら立ち上がる。
「まだあるわよ」
二人は当然のように、茶碗を差し出した。
その様子を見て、思わず笑ってしまう。
昔から変わらない。
父へ目を向ける。
父は何も言わなかった。
ただ黙々と箸を動かしている。
相変わらずだと思う。
けれど、ご飯がなくなると、何も言わず茶碗を差し出した。
母が当たり前のように、おかわりをよそう。
父はそのまま食べ続けた。
それを見ながら、私は小さく息を吐く。
言葉はなくても分かる。
ここが帰る場所なのだと。
それから数週間後。
私は久しぶりに、会社へ足を運んだ。
見慣れた建物。
見慣れた廊下。
何度も歩いた道なのに、少しだけ緊張する。
深く息を吸って、事務所の扉を開けた。
懐かしい空気が、流れ込んでくる。
電話の音。
パソコンのキーボードを叩く音。
誰かの話し声。
変わらない。
少しだけ変わった場所もある。
けれど、やはりここは自分の知っている職場だった。
その時だった。
一人の女性が顔を上げる。
年上だった。
視線が重なる。
ほんの一瞬。
お互いに、何かを言いかけて、言葉が出ない。
長い時間ではなかった。
けれど、その沈黙の中には、たくさんの想いがあった。
年上が少しだけ笑う。
「待ってたよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
境界で聞いた言葉が蘇る。
あなたがいてくれるのが、当たり前だったの。
気付くのが遅かった。
ごめんなさい。
ありがとう。
幸せになって。
私は小さく笑った。
「ただいま」
年上も小さく頷く。
それだけだった。
それだけなのに、十分だった。
その横から、慌てた足音が聞こえる。
振り返ると、若手が立っていた。
驚いた顔。
泣きそうな顔。
笑いたい顔。
全部が混ざっている。
「お、おかえりなさい!」
勢いよく頭を下げる。
私は思わず吹き出した。
「ただいま」
若手の目が、少しだけ潤む。
けれど、泣かなかった。
その代わり、精一杯胸を張る。
「ちゃんと、やってましたから!」
その言葉に、事務所のあちこちから笑い声が上がった。
私も笑う。
年上も笑う。
若手は、少しだけ頬を膨らませる。
そんな、何気ない光景を見ながら思う。
帰ってきたのだと。
家族の元へ。
職場へ。
私の人生へ。
窓の外では、春の風が桜を揺らしていた。
その花びらが、青空へ舞い上がるのを見ながら、私は静かに微笑んだ。
その日の夜だった。
久しぶりの自宅。
久しぶりの自分の部屋。
慣れ親しんだ天井を見上げながら、私はゆっくり目を閉じた。
家族の声。
職場での再会。
たくさんの出来事が、頭の中を巡っている。
疲れていたのだろう。
気付けば、意識はゆっくり眠りへ沈んでいった。
風が吹いていた。
柔らかな風だった。
どこか懐かしい、花の香りがする。
私は、広い庭園へ立っていた。
見覚えがある。
けれど、思い出せない。
不思議な場所だった。
遠くに、誰かがいる。
黒髪が風に揺れていた。
なぜだろう。
その姿を見た瞬間、胸の奥が温かくなる。
背の高い男性だった。
懐かしい。
どうしてかは、分からない。
けれど、会いたかった気がする。
男性が、ゆっくり振り返る。
優しい瞳だった。
何かを、言った気がした。
けれど、風にさらわれて聞き取れない。
ただ、その表情だけは、はっきり見えた。
穏やかで、優しくて。
そして、安心したように微笑んでいた。
そこで夢は途切れた。
翌朝。
窓から差し込む朝日で、目が覚める。
しばらく、天井を見つめたまま動けなかった。
胸の奥が少しだけ温かい。
どんな、夢だったのだろう。
思い出そうとしても、もう思い出せない。
けれど、不思議と寂しくはなかった。
私は小さく笑う。
そして、窓の外へ目を向けた。
春の空はどこまでも青かった。
「今日も頑張ろう」
そう呟いて、立ち上がる。
私の人生は続いていく。
大切なものを、胸の中へ抱いたまま。
その先に続く未来へ向かって。




