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抱え込みすぎて壊れる前に消えた私が、別の世界でやり直したら  作者: 絵宮 芳緒
第十一章|その先へ

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(現代エンド) 第ニ話|おかえりなさい

現代エンド|

※こちらは現代を選んだ場合の結末です。

退院してから、少しずつ日常が戻ってきた。


最初は散歩だった。

次は買い物。

そして、家事。


無理はしないようにと何度も言われたけれど、何もしない方が落ち着かなかった。


だからその日も、私は台所へ立っていた。


包丁の音が響く。

まな板の上で人参を切る。


隣では母が、鍋をかき混ぜていた。


味噌汁の湯気が立ち上り、部屋の中へ優しい香りが広がっていく。


「無理しなくていいのよ」


母がこちらを見ずに言う。

私は小さく笑った。


「大丈夫」


そう答えながら、大根を切る。


まだ、少しだけ動きはぎこちない。

それでも、自分の手で料理をしていることが嬉しかった。


ふと気付く。

こうして、母と並んで料理をするのは、いつ以来だろう。


仕事が忙しくなってからは、帰宅しても食べるだけの日が増えていた。


休みの日ですら、電話が鳴れば仕事の話。

気付けば、台所へ立つ時間も少なくなっていた。


母が、鍋の火を弱めながら言う。


「こうしてると昔みたいね」


私は少しだけ手を止めた。


昔。

その言葉に、小さな記憶が浮かぶ。


夕飯の手伝いをした日。

味見をして怒られた日。

弟たちが、台所へつまみ食いに来た日。


どれも当たり前だった。

当たり前すぎて、いつの間にか忘れていた。


「そうだね」


そう返すと、母が嬉しそうに笑った。




夕食の時間になると、父も弟たちも揃った。


久しぶりに、家族全員が同じ食卓を囲む。


「いただきます」


声が重なる。

しばらくは、静かな時間だった。


箸の音だけが聞こえる。

やがて、十歳下の弟が顔を上げた。


「うまい!これ、姉ちゃんが作ったの?」


そう言って、ご飯をかき込む。

その隣で、三歳下の弟も頷いた。


「俺もおかわり」


母が笑いながら立ち上がる。


「まだあるわよ」


二人は当然のように、茶碗を差し出した。

その様子を見て、思わず笑ってしまう。


昔から変わらない。


父へ目を向ける。

父は何も言わなかった。

ただ黙々と箸を動かしている。


相変わらずだと思う。


けれど、ご飯がなくなると、何も言わず茶碗を差し出した。


母が当たり前のように、おかわりをよそう。

父はそのまま食べ続けた。


それを見ながら、私は小さく息を吐く。

言葉はなくても分かる。


ここが帰る場所なのだと。





それから数週間後。

私は久しぶりに、会社へ足を運んだ。


見慣れた建物。

見慣れた廊下。

何度も歩いた道なのに、少しだけ緊張する。


深く息を吸って、事務所の扉を開けた。


懐かしい空気が、流れ込んでくる。


電話の音。

パソコンのキーボードを叩く音。

誰かの話し声。


変わらない。

少しだけ変わった場所もある。


けれど、やはりここは自分の知っている職場だった。


その時だった。

一人の女性が顔を上げる。


年上だった。


視線が重なる。

ほんの一瞬。


お互いに、何かを言いかけて、言葉が出ない。

長い時間ではなかった。


けれど、その沈黙の中には、たくさんの想いがあった。

年上が少しだけ笑う。


「待ってたよ」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。


境界で聞いた言葉が蘇る。



あなたがいてくれるのが、当たり前だったの。


気付くのが遅かった。


ごめんなさい。


ありがとう。


幸せになって。





私は小さく笑った。


「ただいま」


年上も小さく頷く。

それだけだった。


それだけなのに、十分だった。


その横から、慌てた足音が聞こえる。

振り返ると、若手が立っていた。


驚いた顔。

泣きそうな顔。

笑いたい顔。


全部が混ざっている。


「お、おかえりなさい!」


勢いよく頭を下げる。

私は思わず吹き出した。


「ただいま」


若手の目が、少しだけ潤む。

けれど、泣かなかった。


その代わり、精一杯胸を張る。


「ちゃんと、やってましたから!」


その言葉に、事務所のあちこちから笑い声が上がった。


私も笑う。

年上も笑う。

若手は、少しだけ頬を膨らませる。


そんな、何気ない光景を見ながら思う。


帰ってきたのだと。


家族の元へ。

職場へ。

私の人生へ。


窓の外では、春の風が桜を揺らしていた。


その花びらが、青空へ舞い上がるのを見ながら、私は静かに微笑んだ。




その日の夜だった。


久しぶりの自宅。

久しぶりの自分の部屋。


慣れ親しんだ天井を見上げながら、私はゆっくり目を閉じた。


家族の声。

職場での再会。

たくさんの出来事が、頭の中を巡っている。


疲れていたのだろう。

気付けば、意識はゆっくり眠りへ沈んでいった。






風が吹いていた。

柔らかな風だった。


どこか懐かしい、花の香りがする。

私は、広い庭園へ立っていた。


見覚えがある。

けれど、思い出せない。

不思議な場所だった。



遠くに、誰かがいる。


黒髪が風に揺れていた。

なぜだろう。

その姿を見た瞬間、胸の奥が温かくなる。

背の高い男性だった。


懐かしい。

どうしてかは、分からない。


けれど、会いたかった気がする。




男性が、ゆっくり振り返る。

優しい瞳だった。


何かを、言った気がした。

けれど、風にさらわれて聞き取れない。



ただ、その表情だけは、はっきり見えた。



穏やかで、優しくて。

そして、安心したように微笑んでいた。


そこで夢は途切れた。





翌朝。

窓から差し込む朝日で、目が覚める。


しばらく、天井を見つめたまま動けなかった。


胸の奥が少しだけ温かい。




どんな、夢だったのだろう。

思い出そうとしても、もう思い出せない。



けれど、不思議と寂しくはなかった。

私は小さく笑う。


そして、窓の外へ目を向けた。

春の空はどこまでも青かった。


「今日も頑張ろう」


そう呟いて、立ち上がる。


私の人生は続いていく。

大切なものを、胸の中へ抱いたまま。


その先に続く未来へ向かって。

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