(現代エンド)第一話|ただいま
現代エンド|
※こちらは現代を選んだ場合の結末です。
最初に聞こえたのは、規則正しい電子音だった。
静かな暗闇の中へ、一定の間隔で響いてくる。
遠い。
とても遠いはずなのに、その音だけが少しずつ近づいてくるような気がした。
次に感じたのは温もりだった。
誰かが手を握っている。
柔らかな手。
ずっと握っていてくれたのだろうか。
その温もりだけが、不思議なほどはっきり分かった。
体は重かった。
深い水の底に沈んでいるようだった。
浮かび上がりたいのに、上がれない。
目を開けたいのに開かない。
それでも意識だけが少しずつ浮上していく。
暗闇の向こうで、誰かの声がした。
「今日は暖かいわね」
穏やかで、優しい声だった。
どこか懐かしい。
「桜も咲き始めたんですって」
ぽつりと続く声を聞きながら、胸の奥がじんわりと温かくなる。
知っている声だった。
ずっと、昔から知っている声。
幼い頃、熱を出した時も。
転んで泣いた時も。
嬉しいことがあった時も。
いつも聞いていた声。
そのことだけは分かった。
思い出そうとした瞬間、胸の奥がきゅっと痛む。
会いたかった。
そんな言葉が、不意に浮かぶ。
どうしてだろう。
毎日会っていたはずなのに。
ずっと傍にいたはずなのに。
まるで、何年も会っていなかったような気がした。
握られた手に、少しだけ力が入る。
その温もりに引かれるように、意識がさらに浮上する。
白い廊下が見えた。
二つの光。
家族。
年上。
若手。
ルシアン。
たくさんの顔が浮かび、そしてゆっくり、遠ざかっていく。
『私が、選ぶ』
最後に聞こえたのは、自分の声だった。
その瞬間、重かったまぶたがわずかに動く。
眩しい光が差し込んだ。
思わず眉が寄る。
閉じていた世界へ光が流れ込んでくる。
どこかで、小さく息を飲む音がした。
椅子が動く音。
慌てたような気配。
けれど今はまだ、それさえ遠い。
もう一度、ゆっくりまぶたを開く。
霞んでいた視界の向こうに、人影が見えた。
ぼやけた輪郭が少しずつ形になる。
真っ赤な目。
泣き腫らした顔。
それでも、必死に笑おうとしている人。
その顔を見た瞬間、胸の奥に溢れるものがあった。
母だった。
けれど、頭に浮かんだ呼び方は違った。
「……ママ」
掠れた声だった。
ほとんど音にならなかったかもしれない。
それでも母には届いたらしい。
両手で口元を押さえ、その場で泣き崩れる。
「よかった……」
震える声だった。
「本当に……よかった……」
その後ろに、弟たちがいた。
そして父も。
父は何も言わなかった。
けれど、いつもより少しだけ背筋が伸びて見えた。
いつも通りの顔をしているのに、目だけが赤かった。
その姿を見た瞬間、なぜだか泣きそうになる。
帰ってきたのだと思った。
アリシアとして生きた日々も、ルシアンと過ごした時間も。
全部消えたわけではない。
けれど今、自分はここにいる。
父と母がいて、弟たちがいて。
自分が生まれ育った場所へ、ちゃんと帰ってきた。
声を出そうとする。
喉が痛い。
けれど、少しだけ笑った。
そして、ずっと自分らしい言葉を口にする。
「……みんな」
全員が顔を上げる。
「仕事は……?」
一瞬、病室が静まり返った。
それから、母が泣きながら笑った。
弟たちも吹き出す。
父だけが顔を背けた。
その横顔が少しだけ笑っているように見えた。
その光景を見ながら、私も小さく笑う。
頬を涙が伝った。
「……ただいま」
春の日差しが病室へ差し込む。
誰も言葉を続けなかった。
けれど、その沈黙はどこまでも温かかった。




