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抱え込みすぎて壊れる前に消えた私が、別の世界でやり直したら  作者: 絵宮 芳緒
第十章|選ぶ場所

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第七話|当たり前だったもの

白い廊下には、静かな光が満ちていた。


どこまでも続く白い道を、アリシアはゆっくり歩いていた。


足音は聞こえない。


けれど、一歩進むたびに胸の奥へ何かが戻ってくるような感覚がある。


先ほどまで見えていた病室の景色は、もう光の中へ溶けていた。


それでも、母の声も、弟たちの笑い声も、父の短い言葉も、まだ胸の奥で温かく残っている。


帰る場所は、確かにそこにもあった。





そう思った瞬間、白い光がふわりと揺れた。


今度は、事務所の景色が浮かぶ。


窓際の席。

机に積まれた書類。

壁に貼られた予定表。

鳴り続ける電話。


誰かが「お疲れ様です」と声をかける。


忙しくて、慌ただしくて、気付けば一日が終わっていた場所。


苦しいことも多かった。

けれど、嫌いではなかった。


その景色の中に、年上の姿があった。


手帳を見つめたまま、静かに立っている。

その表情は、いつもよりずっと苦しそうだった。



『あなたがいてくれるのが当たり前だったの』


声が聞こえる。

実際には、そう言われたわけではない。


けれど、アリシアには分かった。

それは、年上の中にあった本音だった。


胸が小さく痛む。


年上の誕生日に、話題のお菓子を渡した日のことを思い出す。


「お誕生日おめでとうございます」


そう言った時、年上は少し驚いて、それから照れたように笑った。


その顔が見たかった。

ただ、それだけだった。


忙しそうな昼に声をかけたこともあった。


「ちゃんとお昼食べました?」


「水分、忘れずに取ってくださいね」


そう言うたびに、年上は「大丈夫」と笑って流した。


その返事も、声の調子も、今になって妙にはっきり思い出せる。


『気付くのが遅かった』


その言葉に、アリシアは目を伏せた。


謝ってほしかったわけではない。

責めたかったわけでもない。


ただ、分かってほしかった。


何年も一緒にいたからこそ。

苦しい時も、忙しい時も、何度も隣で踏ん張ってきた人だったからこそ。


『ごめんなさい』


胸の奥が熱くなる。


『ありがとう』


その一言で、ずっと届かなかったと思っていたものが、ようやく届いた気がした。


そして、最後に残った願いは、とても静かだった。


『幸せになって』


光の中で、事務所の景色が少し揺れる。



その傍に、若手の姿も見えた。


昔より少しだけ大人びた顔で、手帳を見つめている。

そこには、彼女の入社日のメモがあった。


待って良かった…。


そう書いた自分の字を見て、アリシアは懐かしくなる。


すぐには入社できない。

それでも待ちたいと思った。


この子はきっと伸びる。

ちゃんと育てれば、一緒にやっていける。


そう思った日のことを思い出す。


若手は、よく前へ出た。


「私やります」と言ってくれた。

その勢いに困ることもあった。


言葉が強くて、現場の空気が固まることもあった。


それでも、見捨てたいと思ったことはない。

不器用で、雑で、でも必死だった。


自分と少し似ていると思ったからかもしれない。


『待ってくれて、良かったです』


若手の声が聞こえる。


『私、やっと分かりました』


胸の奥がゆっくり温かくなる。


限定のお菓子を渡した日。


現場帰りに疲れていた彼女が、パソコンを見たまま「ありがとうございます」とだけ返した日。


少し寂しかった。

でも、嫌だったわけではない。


疲れているのだと思った。

余裕がないのだと思った。


だから、次の日も同じように声をかけた。


『教えてもらったこと、忘れません』


その言葉に、アリシアは小さく息を吐いた。


無駄ではなかった。

届いていないと思っていた言葉も、きっとどこかには残っていた。





景色がまた滲む。


今度は、家のリビングが見えた。

何でもない夜だった。


テレビの音。

台所から聞こえる食器の音。


弟たちの話し声。


父が黙って新聞を読んでいて、母が夕飯の支度をしている。


当たり前すぎて、特別だと思ったこともなかった景色。


十歳下の弟がこちらを見る。


『姉ちゃん』


懐かしい声だった。


『会いたいな』


胸が締め付けられる。


『……ずっといるのが当たり前だと思ってた』


その言葉を聞いた瞬間、アリシアは目を閉じた。


そうだ。

自分も同じだった。

家族がいるのが、当たり前だった。


帰れば誰かがいて、くだらない話をして、時々言い合って、それでもまた同じ家で朝を迎える。


その何気ない日々が、どれだけ大切だったのか。

失いかけて、初めて分かる。


三歳下の弟の短い声も聞こえた。


『待ってるから』


父の声も、母の声も、光の中で重なっていく。


誰も、こちらを選べとは言わない。

ただ、待っている。

ただ、想っている。


その優しさが、苦しいほど胸へ沁みた。




白い廊下の先で、風が吹いた気がした。


今まで見えていた現代の景色が、ゆっくり遠ざかっていく。

代わりに、金色の光が揺れた。


緑の丘。

領地の街並み。

人々の声。

改革のために走り回った日々。


初めて自分の判断で誰かを助けられた日のこと。


誰かに頼っていいのだと、少しずつ覚えた日のこと。


そして、そのすべての中心にルシアンがいた。


『アリシア』


低く、優しい声が聞こえる。

振り返ると、白い光の向こうに彼が立っていた。


いつものように静かで、けれど、今にも手を伸ばしそうな顔で。


その瞳を見た瞬間、胸の奥が大きく揺れた。


ここにも、帰る場所がある。




現代にも、異世界にも。

どちらにも、自分を待つ人がいる。


どちらにも、笑ってほしい人がいる。


だからこそ、選ばなければならない。


誰かのためではなく、誰かに言われたからでもなく、

自分自身の意志で。




白い廊下の先に、二つの光が並んでいた。


ひとつは、懐かしい家族と職場の光。


もうひとつは、ルシアンのいる世界へ続く光。


アリシアはその場に立ち尽くしたまま、震える指先を胸元へ寄せた。


当たり前だったものが、もう当たり前ではない。


そのことを知った今、初めて、本当に選ぶ時が来たのだと思った。

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