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抱え込みすぎて壊れる前に消えた私が、別の世界でやり直したら  作者: 絵宮 芳緒
第十章|選ぶ場所

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第五話|届かなかったと思っていた

白い廊下を歩いていた。

どこまでも続く静かな世界だった。


足音は聞こえない。

けれど確かに前へ進んでいる感覚だけがある。


遠くから聞こえる声に導かれるように歩いていると、不意に白い光が揺れた。


水面へ石を落としたように景色が波打ち、その向こうに見慣れた場所が浮かび上がる。


事務所だった。


窓から差し込む午後の日差し。

壁の予定表。

書類の積まれた机。


毎日のようにいた場所なのに、どこか遠い。


アリシアはゆっくり近づいた。

そこには年上と若手がいた。


二人は自分の机の前に立ち、一冊のスケジュール帳を開いている。


見慣れた自分の字だった。


現場の予定。

誕生日。

入社日。

小さなメモ。


忘れないように書き留めていたものたち。


若手がページをめくる。

そこで手が止まった。



○○さん入社日


その横には小さな文字。

『待って良かった』


若手が息を飲む。


「……これ」


掠れた声だった。


「私の入社日です」


アリシアは少しだけ目を伏せた。


思い出す。

すぐには入社できないと聞いた日。


周りと年上は、別の候補者を探そうとしていた。


それでも、もう少し待ってみたいと思った。


頑張ろうとしている姿を見ていたから。

育ててみたいと思ったから。


若手は手帳を見つめたまま動かない。


「私……知らなかった」


小さく呟く。


「そんなふうに思ってくれてたなんて」


年上は黙っていた。


視線は別のページへ落ちている。

そこには自分の誕生日が書かれていた。


毎年忘れずに言われた言葉。


『お誕生日おめでとうございます』


話題のお菓子。

限定の商品。

小さなプレゼント。

高価なものではない。


けれど、相手が喜びそうなものを探して渡していた。


「……」


胸が苦しくなる。


思い出す。


『ちゃんとお昼食べました?』


『今日は早く帰ってくださいね』


『水分取ってます?』


『無理してませんか?』


何度も聞かれた。

その度に、「大丈夫」と流していた。


聞き流していた。


当たり前のように受け取っていた。


けれど今なら分かる。

あの子は、仕事をしていたわけじゃない。


人を見ていたのだ。

誰が疲れているか、誰が無理をしているか。

誰が困っているか。


それを見て、何も言わずに動いていた。


手帳を閉じる事ができなかった。

何度もページをめくり、 何度も同じ文字を見てしまう。


年上は静かに目を閉じた。


「あの子ね」


掠れた声だった。


「仕事が丁寧だったんじゃない」


若手が顔を上げる。


「人への向き合い方が丁寧だったんだね」


事務所へ静かな沈黙が落ちる。




アリシアの胸が熱くなった。


長い時間を一緒に過ごした人だった。


苦しい時も、忙しい時も。

何年も隣にいた人だった。


認めてほしかった。

気付いてほしかった。


本当は、ずっと。


年上は手帳へ、視線を落としたまま続ける。


「私ね……」

小さく笑う。


「雑に扱ってたんだと思う。……大丈夫な子だからって」


「ちゃんとやってくれるからって……甘えてた」


その言葉に、アリシアは息を止めた。

違うと言いたかった。


でも、どこかで嬉しかった。


やっと、届いた気がした。

やっと、分かってもらえた気がした。




その瞬間、遠くから優しい声が響く。


『アリシア』


振り返る。


白い廊下の向こうに、金色の光が見えた。

ルシアンだった。


二つの世界が、ゆっくりと重なり始めていた。

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