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抱え込みすぎて壊れる前に消えた私が、別の世界でやり直したら  作者: 絵宮 芳緒
第十章|選ぶ場所

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第四話|知らなかった日

昼過ぎの事務所は、不思議なくらい静かだった。


午前中の慌ただしさが嘘のように落ち着いている。

電話も鳴っていない。

現場からの連絡も一段落していた。


窓から差し込む春の日差しだけが、ゆっくりと床を照らしている。



「……」


年上の女性は、彼女の机の前に立っていた。


病院からは少しずつ反応が出ていると聞いている。

まぶたが動いた。

呼びかけに反応した。


そんな話を聞くたびに胸が締め付けられる。


けれど、まだ戻って来られると決まったわけではない。


だから本当は触りたくなかった机を、少しずつ整理し始めていた。



「勝手に触ったら怒られそうだけどね」


小さく苦笑する。




『ちゃんと元の場所へ戻してくださいね』


そんな声が聞こえてきそうだった。




引き出しを開く。

中は驚くほど整っていた。


付箋。

ファイル。

メモ帳。

予備のボールペン。

どこに何があるのか、一目で分かる。



「……らしいですね」

若手も小さく笑った。




彼女は昔からそうだった。


人の机が散らかっていても何も言わない。

けれど、自分の机はいつも整っている。

たまに、年上の机が乱雑になると、黙って整える。


二人は黙ったまま整理を続ける。



ふと、一冊の手帳が出てきた。


仕事用のスケジュール帳だった。


「確認だけしますね」


若手が言う。

年上は小さく頷いた。


ページを開く。

そこには予定だけではなく、小さな書き込みが並んでいた。



○○さん誕生日

△△さん誕生日

現場スタッフ入社記念


「細かい……」


若手が思わず呟く。


年上は苦く笑った。


「覚えてるのよね、あの子」



毎年、忘れない。

『お誕生日おめでとうございます』


そう言って渡してくれるのは、高価な物ではない。


話題のお菓子だったり、限定商品だったり。

可愛いパッケージの紅茶だったり。


相手が喜びそうなものを探して、楽しそうに渡していた。

見返りなんて求めていない。


ただ、喜ぶ顔を見るのが好きだった。


ページをめくる。

その時だった。


年上の手が止まる。



「……」


若手も気付く。

そこに書かれていた日付。


彼女自身の誕生日。

倒れる少し前の日だった。

事務所へ沈黙が落ちる。


「あ……」


若手が小さく声を漏らした。


その瞬間、年上の胸の奥で何かが重く沈む。


思い出す。


あの日も、いつも通り忙しかった。


電話が鳴り、現場から連絡が入り、若手と二人で話をしていた。


人員のこと、現場のこと。今後の調整。

当時は、大事な話だと思っていた。


でも今となっては、何を話していたのかさえ思い出せない。


覚えているのは、彼女が少し離れた席にいたことだけ。


パソコンへ向かいながら、時折こちらを見る。


会話へ入りたいようにも見えた。

けれど、結局入れなかった。


気付けば、二人だけで話が進んでいた。

共有したつもりだった。

あとで、伝えるつもりだった。


けれど、それは彼女を置いていく事と同じだったのかもしれない。


『お疲れ様です』


彼女はそう言って笑った。


そして、二人の机へお菓子を置いていった。


「これ、新作らしいですよ」


そんなことを言っていた気がする。


年上は目を閉じた。

あの時、自分は何と返しただろう。


ありがとう、と言っただろうか。


ちゃんと、顔を見ただろうか。


思い出せない。


ただ、彼女が少しだけ静かだった事だけが、今になって胸へ刺さる。


若手もまた手帳を見つめていた。


自分の誕生日の日付。


その横に小さく書かれたメモ。


“甘い物苦手”


思わず息を飲む。

そんな事まで、覚えていたのか。


限定のお菓子。

変わったお茶。

話題の商品。


思い返せば、いつもあの人の方からだった。


「私……」


声が掠れる。


「もらってばっかりでした」


年上は何も言わない。

自分も同じだった。


彼女はずっと、周りを見ていた。


誰が疲れているか、誰が落ち込んでいるか。

誰が忙しいか。


気付いていた。

なのに、自分たちは彼女を見ていただろうか。


何気ない一日だった。

特別な事なんて、何もなかった。


誕生日だった事も忘れていた。


少し寂しそうだった事も気付かない。


共有されない事へ、傷付いていた事も知らない。


そして、日々は流れていった。

次の日も、その次の日も。


仕事をして、電話をして。

笑って。

そうして、彼女は倒れた。


窓の外で風が吹く。

机の上の手帳が、かすかに揺れた。


当たり前だと思っていた日々は、もう戻らない。


だからこそ、二人は初めて理解する。


失ってから気付くには、あまりにも大きな存在だった事を。

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