第ニ話|言えない願い
アリシアの執務室を出た後、ルシアンは王宮へ戻っていた。
夕暮れの光が、長い廊下を茜色に染めている。
窓の外には、ゆっくりと傾いていく陽差し。
庭園の木々が風に揺れ、その影が石畳へ静かに落ちていた。
「……」
足は前へ進んでいる。
だが意識は、先ほどのアリシアのもとへ置き去りになったままだった。
『誰かが呼んだ気がしたの』
不安そうな顔。
揺れる瞳。
何かを探しているような表情。
それが離れない。
王宮へ戻ったルシアンは、そのまま自分の執務室へ戻った。
机の上には書類が積まれている。
いつもなら目を通し、判断を下していく時間だった。
でも今日は、一文字も頭に入ってこない。
「……」
小さく息を吐く。
窓の外では、夕暮れがゆっくり夜へ変わり始めていた。
最近のアリシアはおかしい。
いや、正確にはーー
以前からあった違和感が、少しずつ大きくなっている。
ふいに立ち止まり、遠くを見る。
誰かを探すような顔をする。
そして時折、自分でも意味のわからない言葉を口にする。
「……」
ルシアンは静かに目を閉じた。
そんな様子に、心当たりがないわけではなかった。
ルシアンは知っていた。
今のアリシアが、かつて自分の知っていた幼馴染とは違うことを。
幼い頃のアリシア。
真面目で、優しくて。
けれど、どこか自分を閉じ込めていた少女。
そして今のアリシア。
領地を変えた。
人を動かした。
誰かの痛みに気付き、自分より他人を優先してしまうほど不器用で、時折、こちらが驚くような知識を口にする。
最初は戸惑った。
違和感もあった。
でも気付くと、その違いごと愛していた。
領地で再会した日のことを思い出す。
少し痩せた横顔。
無理をして笑う癖。
誰もいない場所で、見せた疲れた表情。
倒れそうになりながらも前を向き続けた。
誰かを助けるために、
領地を守るために、
自分を後回しにして。
何度も、何度も。
手を伸ばしたくなった。
「……卑怯だな」
掠れた声で呟く。
誰へ向けた言葉なのか、自分でもわからない。
本来ならーー
もし、彼女に帰る場所があるのなら。
祝福するべきなのだろう。
家族がいて、人生があって、大切な人たちが待っている場所。
それなのに、離したくない。
苦しいほどに、胸の奥が重い。
「帰るなとは言えない」
静かな声が、誰もいない部屋へ落ちた。
言えない。
言ってはいけない。
もし彼女が選ぶのなら、それは彼女自身が決めるべきことだ。
だが、私はーー
ルシアンはゆっくり目を伏せる。
「今のお前を失いたくない」
それが本音だった。
部屋に沈黙が満ちる
夕暮れの光は消え、窓の外には夜が広がり始めていた。
その頃、アリシアは自室の窓辺に立っていた。
夜風がカーテンを揺らしている。
胸の奥が落ち着かない。
遠くで、誰かが呼んでいる。
そんな気がしてならなかった。
そしてその夜。
アリシアは再び、不思議な夢を見ることになる。
白い光に満ちた、見知らぬ場所の夢を。




