第七話|呼ばれた気がした
病室を出た後も、若手はしばらく言葉を失っていた。
夜の廊下は静かだった。
白い床へ、蛍光灯の光が淡く落ちている。
遠くで、看護師たちの話し声が小さく聞こえた。
「……」
年上の女性も、すぐには口を開かなかった。
エレベーターの待ち時間だけが、妙に長く感じる。
「……」
若手は、ふと振り返る。
閉じられた病室の扉。
その向こうに、あの人はいる。
眠ったまま。
返事もしない。
なのに、さっきの「ごめんなさい」が、まだ胸の奥へ残っていた。
「……」
もし、もっと早く気付いていたら、少し違ったのだろうか。
そんなことを考えてしまう。
「……」
エレベーターが静かに開く。
二人は乗り込んだ。
鏡へ映る自分たちの顔は、どこか疲れて見える。
「……」
若手は、小さく息を吐いた。
「……あの人」
ぽつりと呟く。
「今日、少しだけ顔やわらかかったですね」
「……」
年上は、小さく目を瞬く。
それから、静かに頷いた。
「そうだね」
掠れた声だった。
「前より、少し穏やかだった」
「……」
エレベーターがゆっくり下降していく。
機械音だけが、小さく響く。
「……」
その時だった。
ふいに、若手のスマートフォンが震える。
「……っ」
反射的に取り出す。
だが、ただの通知だった。
「……」
小さく息を吐く。
でも、一瞬だけ“呼ばれた”気がした。
「……」
若手は、無意識に病室の方を見る。
「どうしたの?」
年上が、静かに聞く。
「……いえ」
若手は、小さく首を振った。
「なんか」
言葉を探すように、少し黙る。
「……呼ばれた気がして」
「……」
年上は、静かに若手を見る。
否定しなかった。
「……そういう時、あるよ」
小さく言う。
「大事な人のこと考えてる時って」
「……」
若手は、何も返せない。
大事。
その言葉が、妙に胸へ引っかかった。
「……」
病院を出ると、夜風が少し冷たかった。
昼間の雨の匂いが、まだ薄く残っている。
駐車場へ向かいながら、若手は、ふと空を見上げた。
黒い空。
遠くの灯り。
静かな夜。
「……」
その瞬間だった。
どこか遠くで、誰かに名前を呼ばれたような気がした。
「……え?」
若手が立ち止まる。
振り返っても、誰もいない。
「どうした?」
年上が、不思議そうに見る。
「……今」
若手は、小さく眉を寄せた。
「……呼ばれた気がしたんです」
「……」
年上は、静かに目を細める。
風が吹く。
病院の窓の灯りが、遠く揺れて見えた。
「……」
誰も、何も言わない。
でもその瞬間、病室の主人公の指先が、ほんのわずかに動いたことを、二人は、まだ知らなかった。




