第五話|病室の前
夕方の空は、薄く茜色に染まり始めていた。
事務所の窓へ、西日が差し込んでいる。
長く伸びた影が、床へ静かに落ちていた。
昼間より、人の声も少ない。
電話の音も、どこか遠く感じる。
「……」
若手は、パソコンの画面を見たまま手を止める。
カーソルだけが、点滅していた。
視線が、何度も横へ流れてしまう。
隣のあの人の席。
誰もいない椅子。
そこへ向かいそうになるたび、胸の奥がざわついた。
「……」
年上の女性は、静かに時計を見る。
もうすぐ定時だった。
だが今日は、そのまま帰る気になれない。
帰ってしまったら、また明日も同じように席だけが空いている気がして。
「……病院、行きますか?」
若手が、ぽつりと言った。
「……」
年上は、少しだけ目を見開く。
若手は、視線を落としたままだった。
「顔、見たいです」
掠れた声。
「……」
少し前までなら、きっと言わなかった。
仕事が残っているとか、明日早いとか、理由をつけて帰っていたと思う。
「……うん」
年上は、小さく頷いた。
「行こうか」
「……」
事務所へ、小さな静けさが落ちる。
誰も、“大丈夫”とは言わなかった。
言えなかった。
「……」
若手は、そっと隣の席を見る。
机の端。
置かれた付箋。
揃えられたペン。
途中までチェックの入った資料。
そこだけ、時間が止まっているみたいだった。
「……」
ふいに、引き出しの横へ小さな紙袋が見えた。
若手が、そっと手を伸ばす。
中には、小分けのお菓子が入っていた。
「……」
“新作らしいです”
小さなメモが入っている。
丸い字だった。
「……っ」
胸の奥が、少し痛む。
思い出す。
『これ、SNSで話題らしいですよ』
『疲れてる時、甘いの欲しくなりません?』
そう言って、よく配っていた。
「……」
若手は、小さく紙袋を握る。
あの日も確か、自分は適当に受け取った。
パソコンの画面を見たまま、「ありがとうございます」だけ返して。
「……」
ちゃんと、顔を見ていただろうか。
疲れてないかとか、ちゃんと笑えていたかとか、何一つ、見ていなかった気がした。
「……」
胸の奥が、じわりと苦しくなる。
「持っていく?」
年上が、静かに聞く。
若手は一瞬だけ迷ってから、小さく頷いた。
「……はい」
掠れた声だった。
「……」
年上は、その様子を静かに見ていた。
それから、あの子の席へ近づく。
椅子へ、そっと手を触れる。
冷たい。
当たり前なのに、その感触がやけに寂しかった。
「……」
思い出す。
少し前までここから、よく声が飛んできた。
『ちゃんと休憩してくださいね?』
『今日、顔色悪いですよ』
『それ、私やりますよ』
当たり前みたいに、自然に。
「……」
胸の奥が、静かに痛む。
「あの子……」
年上が、小さく呟く。
「自分のことは、後回しだったからね」
「……」
若手は、何も言えない。
「あの子、たぶん……」
年上は、小さく息を吐く。
「“迷惑かけたくない”が先に来る子だったから」
「……」
静かな声だった。
「だから、周りが止めなきゃいけなかったのに」
責めるようではなく、後悔するみたいに。
「……私」
若手が、小さく息を飲む。
「全然、気付いてなかったです」
「……」
年上は、ゆっくり目を伏せた。
「私もだよ」
掠れた声だった。
「気づいてたのに、ちゃんと止めなかった」
「……」
事務所へ、静かな沈黙が落ちる。
外では、車の音が遠く響いていた。
昼の騒がしさが、少しずつ夜へ変わっていく。
「……行こうか」
年上が、小さく言う。
若手は、紙袋を抱えたまま頷いた。
二人は、静かに事務所を出る。
その瞬間、誰もいなくなった彼女の席へ、西日だけが静かに差し込んでいた。
まるで、「お疲れ様です」と笑う声だけが、まだそこへ残っているみたいに。




