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抱え込みすぎて壊れる前に消えた私が、別の世界でやり直したら  作者: 絵宮 芳緒
第九章|残された側

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第四話|届かなかった言葉

夕方が近づくにつれて、事務所の空気は少しずつ慌ただしさを増していた。


現場から戻る人。

電話対応。

明日のシフト確認。


パソコンの画面へ向かったまま、誰かが小さくため息をつく。


コピー機の音が、やけに響いて聞こえた。


いつもの光景。

それなのに、どこか空気が違う。


「……」


若手は、無意識に隣の席を見てしまう。


誰もいない椅子。

机の端に残る付箋。

途中まで開かれた資料。


そこだけ、まだ時間が止まっているみたいだった。


「……」


胸の奥が、妙に落ち着かない。


その時、現場から電話が入った。

若手が反射的に受話器を取る。


「はい、お疲れ様です」


以前より、少し柔らかい声。


「……え?」


若手の表情が曇る。

どうやら、現場で確認漏れがあったらしい。


「……すみません」


小さく謝る。


だが次の瞬間、いつもの癖みたいに、言葉が出かけた。


“先に言ってくれれば”


“確認してもらえれば”


「……」


そこで、若手は止まる。


頭の奥に、あの人の声が浮かんだ。


『大丈夫ですよ』


『一緒に確認しましょうか』


『先にこちらで、動いておきますね』


「……」


喉が、少し詰まる。


「……こちらでも確認不足でした」


ゆっくり言葉を選ぶ。


「一度、整理してから折り返しますね」


「……」


電話を切る。


事務所が、少し静かだった。

誰かが、ちらりとこちらを見る。


「……」


若手は、小さく息を吐く。

変な感じだった。


今までなら、もっと先に自分の正しさを口にしていた。


「……」


年上の女性が、静かにこちらを見る。


何も言わない。

ただ、少しだけ表情がやわらいでいた。


「……」


若手は、視線を逸らす。

胸の奥が、妙にざわつく。


「……あの人」


ぽつりと声が漏れる。


「よく、“言い方大事ですよ”って言ってました」


「……」


年上は、小さく目を瞬く。


若手は、苦笑するみたいに続けた。


「正直、また始まったって思ってました」


「お母さんみたいっていうか、説教くさいなって」


「……」


思い出す。


あの人は、怒るわけじゃなかった。


ただ、『同じ内容でも、言い方で受け取り方変わるので』


『現場、空気悪くなると動きづらいんですよね』


そう言って、困ったみたいに笑いながら言っていた。


「……」


若手は、ゆっくり目を伏せる。


「……届いてなかったんだな」


掠れた声だった。


「……」


年上は、静かに息を吐く。


「たぶんね」


小さく言う。


「あの子、あなたを否定したかったわけじゃないんだよ」


「……」


若手は、何も言えない。


「ちゃんと頑張ってるの、わかってたから。だから、もっと周り見えたら、この子もっと良くなるって思ってた」


「……」


胸が、じわりと痛む。


「……私」


若手が、小さく呟く。


「ちゃんと教えてもらってたんですね」


「……」


年上は、少しだけ苦しそうに笑った。


「うん。でも……私も、ちゃんと聞かなかった」


「……」


若手が、顔を上げる。

年上は、あの人の席を見ていた。


「向き不向きあるからって。仕事早いし、若いからって。……私は、あの子へそう言ってた」


「……」


思い出す。

主人公は、困ったように笑っていた。


『そうですよね』


そう返しながら、結局自分で空気を整えていた。


「……」


胸の奥が、痛い。


「あの子ね」


年上は、小さく息を吐く。


「仕事が丁寧な“だけ”だったんじゃなかったの」


「……」


若手が、少し顔を上げる。


「人を見るのが、丁寧だったの」


静かな声だった。


「誰が疲れてるか」


「誰が困ってるか」


「誰が、今ちょっと余裕ないか」


「あの子、ずっと見てたから」


「……」


年上は、小さく目を伏せる。


「私にも、よく言ってたんだよね」


『ちゃんとお昼食べました?』


『水分、忘れずに取ってくださいね』


『少し休んだ方がいいですよ』


「……」


若手の表情が、ゆっくり揺れる。


“私やります!”


そう前へ出ることばかり考えていた。


でもあの人は、ずっと人を見ていた。


「……」


窓の外では、夕方の光が少しずつ色を変え始めていた。


事務所の中にも、長く伸びた影が落ちている。


まるで、今まで見えていなかったものが、ゆっくり浮かび上がってくるみたいに。

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