第三話|待ってでも
午後の事務所は、少しだけ空気が重かった。
誰かが話していても、どこか声を抑えている。
そんな静けさがあった。
「……」
若手は、自分の席へ座ったまま動けずにいた。
手の中には、まだ付箋がある。
“今日は機嫌悪そうだから、先に私から話しておきますね”
丸みのある字。
柔らかい言い回し。
責める言葉なんて、どこにもない。
「……」
胸の奥が、妙に苦しかった。
思い返せば、自分はずっと甘えていたのかもしれない。
不機嫌でも、返事を流しても。
少しくらい態度が悪くても。
あの人は、困ったように笑っていたから。
「……」
そこへ年上の女性が、棚から古いファイルを取り出した。
「……あ」
若手が、小さく声を漏らす。
履歴書の保管ファイルだった。
「これ、整理しないとね」
年上は、静かに言う。
だがページをめくる手が、途中で止まった。
「……」
そこに、自分の履歴書があった。
若手の視線も止まる。
「……懐かしい」
小さく呟く。
入社前。
まだ何も知らなかった頃。
「……」
その時だった。
年上の女性が、書類の端に貼られたメモへ気付く。
小さな付箋。
見慣れた丸い字。
「……」
呼吸が、少し止まる。
若手も、つられるように視線を向けた。
そこには彼女の字で、短く書かれていた。
“すぐ勤務開始は難しいが、誠実に話してくれる”
“長く育てれば伸びるタイプだと思う”
“現場には必要な子”
「……」
若手の目が、止まる。
「……え?」
掠れた声が漏れる。
年上は、静かに付箋を見つめていた。
思い出す。
あの頃、自分は別現場で手一杯だった。
人員不足。
連日のトラブル。
電話対応だけで、一日が終わるような時期。
採用面接にまで、ほとんど関われなかった。
「……」
でもあの子だけは、珍しく強く言ったのだ。
『少し待ってでも、この子採りたいです』
『ちゃんと育てれば、すごく頑張る子だと思うんです』
笑いながら。
でも、真剣に。
「……」
胸の奥が、鈍く痛む。
「……私」
若手の声が、震える。
「私あの人に、採用反対されてたと思ってました」
「……」
年上は、ゆっくり首を振った。
「逆だよ」
静かな声だった。
「待ってでも採りたいって言ったの、あの子」
「……」
若手の呼吸が、止まる。
「……」
視線が、付箋へ落ちる。
“現場に必要な子”
その文字が、妙に滲んで見えた。
「……なんで?」
掠れた声が漏れる。
「……私、全然ちゃんとしてなかったのに」
「……」
年上は、小さく目を伏せる。
「たぶん」
静かに言う。
「あの子、自分と少し似てると思ったんじゃないかな」
「……え?」
若手が、顔を上げる。
「不器用なところとか。頑張り方が下手なところとか……」
「……」
若手の指先が、小さく震える。
「……でも、私」
声が掠れる。
「理由つけて、先に帰ったりしてました。沿線だから近いのに……用事あるとか言って」
「……」
本当は少し疲れたら、帰りたかった。
面倒な空気から離れたかった。
「あの人、残ってたのに」
「……」
年上の胸が、また痛む。
思い出す。
人が少なくなった、夕方の事務所。
若手が、
『お先に失礼します』
そう帰っていったあとも。
あの子は、まだパソコンへ向かっていた。
電話対応の合間に、資料をまとめて。
現場から戻った人へ「お疲れ様です」と声をかけて。
抜けていた確認を、何も言わず埋めていた。
『先、帰って大丈夫だよ』
そう笑っていたけれど。
気付けば、先読みして最後まで確認していたのは、いつもあの子だった。
「……」
胸が、苦しい。
「あの子ね」
年上は、静かに主人公の席を見る。
「仕事が丁寧な“だけ”だったんじゃなかったの」
「……」
若手が、少し顔を上げる。
「人を見るのが、丁寧だったの」
静かな声だった。
「誰が疲れてるか、誰が困ってるか。誰が、今ちょっと余裕ないか。あの子、ずっと見てたから」
「……」
年上は、小さく目を伏せる。
「現場にもね」
静かな声で続ける。
「よく、お菓子とか差し入れしてたの。“これ、SNSで話題らしいですよ”とか」
「“限定みたいです”とか」
「……」
少しだけ、困ったように笑う。
「あの子、そういうの見つけるの上手かったから」
「疲れてる時って、ちょっと甘いだけでも空気変わるじゃない?って、よく言ってた」
「……」
若手は、何も言えない。
思い返せば、自分も貰っていた。
現場帰り。
疲れて不機嫌だった日。
返事を流してしまった日でさえ。
『これ、美味しかったですよ』
そう言って、机へそっと置かれていた。
「……」
あの日、適当に「ありがとうございます」と返した気がする。
ちゃんと顔を見ていたかも、覚えていない。
「……私」
若手が、小さく口を開く。
「ただ、物あげたい人なんだと思ってました」
「……」
若手は、視線を落としたまま続ける。
「よくお菓子配ってるし。話題のお店とか、限定とか好きなんだなって」
小さく笑おうとして、うまく笑えない。
「……でも」
声が、少し震える。
「違ったんですね」
「……」
机の上の付箋。
丸い字。
“今日は機嫌悪そうだから、先に私から話しておきますね”
その文字が、胸へ刺さる。
「……気遣い、だったんだ」
掠れた声だった。
「……」
年上は、小さく頷いた。
「あの子ね」
静かな声が落ちる。
「誰かだけに、優しい子じゃなかったから」
「……」
事務所へ、静かな沈黙が落ちる。
窓の外では、雨上がりの光が静かに広がり始めていた。
灰色だった空に、少しずつ青が混ざっていく。
まるで、止まっていたものが、ゆっくり動き出すみたいに。




