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抱え込みすぎて壊れる前に消えた私が、別の世界でやり直したら  作者: 絵宮 芳緒
第九章|残された側

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第ニ話|空いた席

昼を過ぎても、事務所は落ち着かなかった。


電話は鳴り続ける。

現場からの確認。

シフト変更。

急な欠員連絡。


誰かが席を立ち、誰かが戻る。


慌ただしい空気は、いつもと同じはずだった。


「……」


なのに、どこか噛み合わない。


小さなズレが、あちこちで起きていた。


「すみません、この発注まだでした?」


「あ、ごめん、それ確認待ちだった」


「え、聞いてないです」


「……ああ、引き継ぎ途中だったかも」


「……」


以前なら、止まらなかった流れ。


誰かが自然に拾っていた。

抜ける前に気付き、止まる前に繋いでいた。


「……」


年上の女性は、小さく息を吐く。


視線が、無意識に向く。


窓際の席。

今は誰も座っていない場所。


「……」


そこだけ、時間が止まったみたいだった。


マグカップ。

付箋。

クリアファイル。

整理途中の資料。

“あとで確認”と書かれたメモ。


全部、そのまま残っている。


「……」


片付けられなかった。


いや、正確には片付ける気には、なれなかった。


その席から、ふっと「お疲れ様です」と声が聞こえそうで。

まだ、どこか現実感がない。


「……」


そこへ、若手が戻ってくる。

少し疲れた顔だった。


額に貼りついた前髪を払いながら、資料を机へ置く。


「現場、終わりました」


「お疲れさま」


年上は、静かに返した。


「……」


若手は、自分の席へ座りかけて、ふと隣の机を見る。


視線が止まる。


「……」


少しだけ、黙る。


「……まだ、そのままなんですね」


ぽつりと落ちる。


「……うん」


年上は、小さく頷いた。


「なんか……」

若手が、言葉を探すように視線を逸らす。


「戻って来そうで」


「……」


胸が、少し痛む。


「……そうだね」


年上は、静かに返した。


「私も、そう思ってる」


「……」


事務所へ、小さな沈黙が落ちる。


遠くで電話が鳴っている。

コピー機の音もする。

誰かが笑う声も聞こえる。


それなのに、その席の周囲だけ、妙に静かだった。


「……」


若手は、隣の机をぼんやり見つめる。


それから、机の端へ貼られた付箋へ手を伸ばした。


「……これ」


小さく剥がす。


“○○さん、少し疲れてそうなのでフォローお願いします”


丸みのある字だった。

柔らかい字。

急いで書いたのか、少しだけ文字が流れている。


「……」


若手の目が、止まる。

もう一枚。


“△△現場、空気ピリついてたので先に電話入れてます”


さらに、


“今日は○○さん忙しそうなので、私が先に確認しておきますね”


「……」


若手の呼吸が、少し止まる。


「……何、これ?」


掠れた声だった。


「……」


年上は、静かに目を伏せる。


「あの子ね……」


小さく言う。


「いつも、こういうことしてたの」


「……」


若手の視線が、ゆっくり揺れる。


「でも、そんなの……」


言葉が止まる。


当たり前だと思っていた。

気付かなかった。

いや、見ようとしていなかった。


「……」


若手は、もう一枚付箋を取る。


“今日は機嫌悪そうだから、先に私から話しておきますね”


「……」


空気が、止まる。

若手の指先が、小さく震えた。


「……これ」


掠れた声で言う。


「私のこと、ですか」


「……」


年上は、すぐには答えなかった。


答えなくても、たぶんわかっている。


「……」


若手は、力が抜けたみたいにゆっくり椅子へ座る。


「……私」


小さく呟く。


「そんなに、態度悪かったんだ」


「……」


年上は、静かに若手を見る。


「悪かった、というより」


少し迷ってから続ける。


「余裕がなかったんだと思う」


「……」


若手が、目を伏せる。


「でも……」


年上は、小さく息を吐いた。


「余裕がない時ほど、人って本音が出るから」


「……」


その言葉が、静かに落ちる。

若手は、何も返せなかった。


「……」


年上は、あの子の席を見る。


思い出す。

不機嫌な態度を向けられても、流し聞きみたいな返事をされても。


あの子は、困ったみたいに笑っていた。


『大丈夫ですよ』


『気にしないでください』


『私から言っておきますね』


そう言って、全部自分で飲み込んでいた。


「……」


胸が、鈍く痛む。


「……私」


若手が、小さく口を開く。


「あの人に、嫌われてると思ってました」


「……え?」


年上が、少し目を見開く。


若手は、視線を落としたままだった。


「だって…」


掠れた声で続ける。


「細かいし、注意ばっかりだし。お母さんみたいっていうか……」


小さく笑おうとして、失敗する。


「だから……」


声が、少し震えた。


「うるさいって、思ってた」


「……」


若手の手の中で、付箋が少しだけ歪む。


「でも……」


小さく息を飲む。


「……嫌われてなかったんだ」


「……」


その声は、ようやく気付いてしまった人の声だった。


事務所へ、静かな沈黙が落ちる。

窓の外では、雲の隙間から薄い光が差し込んでいた。


まるで、今になって初めて見えてきたみたいに。

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