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抱え込みすぎて壊れる前に消えた私が、別の世界でやり直したら  作者: 絵宮 芳緒
第九章|残された側

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第一話|正しいだけでは

雨上がりの空は、まだ少し灰色だった。


窓の外には薄い雲が残っている。


「……」


事務所の中は、朝から慌ただしかった。


電話の音。

パソコンのキーボードを叩く音。

現場から届く連絡。

誰かの「お疲れ様です」という声。


いつも通りの朝。


なのに、どこか空気が違う。


「……」


一人足りないだけで、こんなにも変わるのかと思う。


「……」


年上の女性は、小さく息を吐いた。


机の上には、未整理の書類が積まれている。


以前なら、気付けば整っていた。


優先順に並び替えられ、必要な付箋が貼られ、確認漏れがないよう、先回りしてまとめられていた。


誰かが、何も言わず空気が止まる前に動いていたから。


「……」


視線の先。


デスクの端に、小さなメモが残っている。


丸みのある字。

“先に確認お願いします”


その文字を見ただけで、胸の奥が鈍く痛んだ。


「すみません、これ確認お願いします!」


若手の声が飛ぶ。

年上は、意識を戻した。


「うん、見るね」


受け取った書類へ目を通す。


若手は、以前よりちゃんと動いていた。


電話も取る。

現場確認も行く。


前なら避けていた面倒な対応も、今は自分からやろうとしている。


変わろうとしているのは、わかる。


「……」


その時、現場から電話が入った。

若手が出る。


「はい、お疲れ様です」


明るい声だった。

少し前より、柔らかくなっている。


「……え?」


若手の眉が寄る。


「いや、それ先に言ってくれれば効率良かったですよね?」


「……」


事務所の空気が、静かに止まった。

電話の向こうの声は聞こえない。


だが、困っているのはわかった。


「今からだと二度手間になるんで」


若手は続ける。


「次からは早めにお願いします」


「……」


年上は、静かに目を伏せた。


責めるつもりで言っていないのはわかる。

効率を考えているのも、わかる。


でもその言い方では、相手は、怒られた”と感じる。


「失礼します」


電話を切る若手。


「いや、だって普通に困るじゃないですか」


少し不満そうに言う。


「先に言ってくれれば済んだ話なのに」


「……」


年上は、静かに若手を見る。


「……ねえ」


穏やかな声だった。

若手が顔を上げる。


「その言い方だとね」


静かに続ける。


「相手は、“責められた”って感じるよ」


「……え?」


若手が、少し眉を寄せる。


「でも、間違ってないですよね?」


「効率悪いですし」


「……」


その言葉に、胸の奥が少し痛む。


同じような言葉を、前にも、聞いた。


「……」


若手は、気付かないまま続ける。


「だって、私より先輩なんだし……。

お給料ももらってるんだから、ちゃんとやるの普通じゃないですか?」


「……」


事務所が静かになる。


「私の方が動いてた時もありましたし」


悪気なく続ける声。


「……」


年上は、ゆっくり息を吐いた。


怒る気には、なれなかった。

ただ、胸がひどく苦しかった。


「……動いてたよ」


静かに言う。

若手が、少し目を瞬く。


「あなたは、ちゃんと動いてた」


「……」


年上は、視線を落とした。


あの子の席。


今は誰もいない椅子。

そこに置かれたままのマグカップ。

読みかけの資料。

小さく折られた付箋。


全部が、まだ“いる”みたいだった。


「……でもね」


ゆっくり顔を上げる。


「“仕事してる”って、作業だけじゃないんだよ」


「……」


若手の表情が、少し止まる。


「相手が動きやすいようにするとか……。

空気を悪くしないようにするとか、困ってる人へ先に気づくとか。

そういうのも、仕事なの」


「……」


若手が、小さく眉を寄せる。

納得していない顔だった。


その表情を見て、年上の胸がまた痛む。


「……前にも言われた?」


若手が、ぽつりと聞く。

「お母さんみたいだなって。説教くさいって……」


「……」


年上の呼吸が、一瞬止まる。


「……あの人にも、言ってました」


「……」


違う。

あの子は、若手に対してそんな言い方をしなかった。


「……」


ふいに、思い出す。

困ったように笑っていた顔。


『少し、言い方が強く感じる時があって……』


『現場が、ちょっとピリついてしまって……』


責めるでもなく、小さな声だった。


ただ、“どうしたらいいでしょう”と相談するみたいに。


「……でも、若い子よく動いてるし」


自分は、そう返した。


『悪気はないんだよ』


『若いから、仕方ないところあるよ』


「……」


あの子は、少しだけ笑った。


『……そうですよね』


その笑顔が、今になって胸へ刺さる。


「……」


年上は、静かに目を閉じた。


ちゃんと、気付いていた。


あの子が、疲れていたこと。

飲み込んでいたこと。

若手に不機嫌な態度を向けられても、流し聞きみたいな返事をされても。


空気が悪くならないよう、先にフォローへ回っていたこと。


でも、“回っていたから”見ないふりをした。


「……」


若手が、小さく口を開く。


「……私」


少し迷うように。


「そんなに、感じ悪かったですか?」


「……」


年上は、ゆっくり若手を見る。


責める目ではなく、どこか疲れた目だった。


「……優しい人ってね」


静かな声が落ちる。


「“大丈夫”って言いながら、限界超えるの」


「……」


若手の表情が、初めて揺れた。


「……あの子は」


年上は、小さく息を吐く。


「“迷惑かけたくない”が、先に来る子だったから」


「……」


事務所へ、静かな沈黙が落ちる。


雨上がりの光だけが、窓から静かに差し込んでいた。

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