第九話|残された記憶
雨は、いつの間にか弱くなっていた。
窓の外は薄く明るい。
夜明けの光が、静かに部屋へ差し込み始めている。
「……」
アリシアは、ぼんやりと窓の外を見ていた。
長い夜だった。
けれど、不思議と今は少しだけ呼吸が楽だった。
「……」
指先へ、まだ熱が残っている。
視線を落とす。
重ねられたままの手。
ルシアンは、寝台の傍へ座ったままだった。
「……本当に帰らなかったのね」
掠れた声で言うと、ルシアンは、小さく息を吐いた。
「今さら追い出す気か?」
「そんなこと言ってないわ」
「なら問題ない」
即答だった。
「……」
思わず、小さく笑ってしまう。
その笑みを見て、ルシアンの表情が、ほんの少しだけ和らぐ。
「……」
静かな空気だった。
張り詰めていた夜とは違う。
雨上がり前の、少し湿った朝の匂いがする。
「……」
その時、扉の外で小さくノックが響いた。
侍女が、朝の茶を運んできたらしい。
「失礼いたします」
静かな声と共に、ワゴンが運び込まれる。
湯気の立つ茶器。
焼きたての薄いパン。
温かな香りが、静かに部屋へ広がった。
「……」
アリシアは、ぼんやりとその皿を見る。
焼き目のついた、やわらかな白パン。
まだ温かく、薄く湯気が立っている。
「……」
ふと、無意識に言葉が零れた。
「……サンドイッチにしたら美味しそう」
「……?」
侍女が、不思議そうに瞬きをする。
ルシアンの視線だけが、静かに止まった。
「さんど……?」
低い声が返る。
「……」
アリシア自身も、はっとする。
「……何かしら、それ?」
小さく眉を寄せる。
聞いたことがない。
なのに、なぜかひどく馴染みがある気がした。
「……」
頭の奥へ、ぼんやりと光景が浮かぶ。
薄いパン。
何かを挟む感覚。
慌ただしい朝。
片手で食事を済ませる誰か。
「……」
胸の奥が、また小さく揺れた。
「……何かを挟むの」
自分でも、確かめるみたいにぽつりと零れる。
「……挟む?」
「ええ」
アリシアは、小さく頷く。
「野菜とか……卵とか」
「……」
ルシアンの眉が、わずかに動く。
「変かしら?」
「いや」
短く返る。
だが、その視線は静かに揺れていた。
「……面白い発想だ」
「……」
アリシアは、小さく目を伏せる。
“発想”。
そう、この世界には、たぶんない。
なのに、自分は知っている。
「……」
胸の奥が、また小さく痛む。
「……忙しい時に」
無意識に、言葉が続く。
「片手で食べられるから、便利なのよね」
「……っ」
その瞬間、頭の奥が大きく揺れた。
慌ただしい足音。
明るい照明。
誰かの声。
“お疲れ様です!”
紙に包まれた食べ物。
熱い飲み物。
「……!」
アリシアの呼吸が止まる。
視界が、ぐらりと揺れた。
「アリシア!」
ルシアンの声が落ちる。
だが、知らない景色が、次々流れ込んでくる。
白い天井。
並ぶ机。
積み上がった書類。
急ぎ足の人影。
「……っ、ぁ……」
胸が苦しい。
息ができない。
「無理に思い出すな」
ルシアンの手が、すぐにアリシアの肩を支える。
「……」
低い声が、耳へ届く。
その声だけが、今の自分を繋ぎ止めていた。
「……こわ、い……」
震える声が漏れる。
「……」
ルシアンの表情が、静かに歪む。
その顔を見た瞬間、胸の奥がまた痛くなる。
「……そんな顔しないで」
掠れた声で言う。
「……」
ルシアンは、一瞬だけ黙った。
それから、そっとアリシアの額へ自分の額を寄せる。
「難しいことを言う」
低く落ちる声は、どこか苦しそうだった。
「お前が苦しんでいるのに………平気な顔などできるわけがない」
「……」
胸が、大きく揺れる。
「……」
ルシアンの指先が、ゆっくりアリシアの頬を撫でる。
「お前は」
低い声が落ちる。
「自分がどれだけ周囲を揺らしているか、わかっていない」
「……」
アリシアは、小さく息を飲む。
揺らしている。
そんなふうに言われたことは、なかった。
「……」
ルシアンは、静かに目を伏せる。
それから、重ねた手をさらに強く握った。
「だから」
低い声が、静かに響く。
「勝手に消えるな」
「……」
その言葉に、胸の奥が痛いほど熱くなる。
「……」
窓の外では、雲の切れ間から朝の光が差し始めていた。
それでも、アリシアの胸の中では、まだ二つの世界が揺れていた。




