第八話|もし、私じゃなくなっても
雨は、まだ静かに降り続いていた。
窓の外は、薄く白み始めている。
夜と朝の境界が、曖昧な時間だった。
「……」
アリシアは、重ねられた手を見つめていた。
ルシアンの熱が、まだ指先へ残っている。
その温度だけで、自分がここへ繋ぎ止められている気がした。
「……」
けれど、胸の奥では、別の何かが揺れている。
白い光。
泣きそうな声。
“帰っておいで”
「……」
思い出しそうになるたび、苦しくなる。
まるで、二つの場所へ同時に引かれているみたいだった。
「……」
ルシアンは、何も急かさず
静かにアリシアを見ている。
ただ、逃がさないように。
「……」
アリシアは、小さく息を吐いた。
それから、ゆっくり唇を開く。
「……ねえ」
「なんだ?」
低い声が返る。
「……もし」
言葉が、少し震える。
「私が、私じゃなくなっても」
「……」
空気が止まる。
雨音だけが、遠くで響いていた。
「……」
ルシアンの指先が、わずかに強くなる。
「……どういう意味だ?」
低い声だった。
だが、その奥には緊張が滲んでいる。
「……わからないの」
アリシアは、小さく目を伏せる。
「でも」
「時々、自分じゃない記憶みたいなものが流れてくるの」
「……」
白い部屋。
電子音。
雨。
誰かの涙。
「……」
胸の奥が、痛む。
「……帰らなきゃいけない気がするのに」
掠れた声が零れる。
「ここから離れたくないって、思ってしまう」
「……」
ルシアンは、何も言わない。
ただ、静かに聞いている。
その沈黙が、怖かった。
「……」
アリシアは、ゆっくり息を吐く。
「もし」
もう一度、言葉を落とす。
「本当に、別の誰かだったとして……今の私が消えたら」
「……」
喉が、ひどく苦しい。
「……あなたは」
震える声で問う。
「それでも、私をアリシアだと思える?」
「……」
雨音が、静かに響く。
長い沈黙だった。
「……」
ルシアンは、ゆっくり目を閉じる。
それから重ねた手を、そっと握り直した。
「……私は」
低い声が落ちる。
「地位や名で、お前を見ているわけじゃない」
「……」
アリシアの目が、揺れる。
「お前が笑う時の顔も…無理を隠す癖も。周囲ばかり気にするところも。全部、知っている」
「……」
胸が、大きく鳴る。
「……だから」
ルシアンは、まっすぐアリシアを見つめた。
「もし、お前が自分を見失っても……私は、お前を探し出す」
「……!」
息が止まる。
「……何度でも」
低く、静かに、一切の迷いもなく。
「お前を、見つける」
「……」
苦しいほどに、胸の奥が熱い。
「……」
アリシアの視界が、滲む。
怖かった。
自分が消えることが。
忘れられることが。
でも、この人は“今の自分”を見てくれている。
「……」
ルシアンの指先が、そっと涙を拭う。
「だから」
低い声が落ちる。
「勝手にいなくなるな」
「……」
思わず、小さく笑ってしまう。
涙が滲んでいるのに、不思議と、少しだけ安心した。
「……うん」
小さく頷く。
その返事が、どちらの意味なのか、アリシア自身にも、まだわからなかった。




