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抱え込みすぎて壊れる前に消えた私が、別の世界でやり直したら  作者: 絵宮 芳緒
第七章|残された側

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第十話|帰る場所

帰宅した頃には、日付が変わりかけていた。


雨は、まだ静かに降っている。

駐車場から玄関までの短い距離だけで、靴先が少し濡れた。


「……」


玄関の灯りがついていた。

リビングから、やわらかい光が漏れている。


こんな時間なのに、まだ起きているのだとわかって、胸の奥が、少しだけ緩む。


「……ただいま」

小さく声をかけながら靴を脱ぐ。


その動作だけで、身体の重さを思い出した。


足が重い。

肩も痛い。


気を張っていた分だけ、一気に疲れが押し寄せてくる。


「おかえり」


リビングから、夫の声が返る。

いつも通りの落ち着いた声だった。


「……」


部屋へ入ると、夫がノートパソコンを閉じるところだった。


リモートワーク用の資料が、テーブルの端にまだ残っている。


仕事をしながら待っていたのだろう。


「……かなり無理してるね」


夫は、顔を見た瞬間にそう言った。


責めるでもなく、心配を押しつけるでもなく。

ただ、静かに事実を置くみたいに。


「大丈夫」

反射みたいに返す。


そう言わないと、崩れそうだった。


「その言い方する時、大丈夫じゃないよね」


少し困ったように笑われて、言葉が止まる。


「……」


その時、娘が部屋から顔を出した。


「お母さん帰ってたの?」


眠そうに髪を押さえながら近づいてくる。


「まだ起きてたの?」


「課題やってた」


そう言いながら顔を見て、ぴたりと止まった。


「え、顔色やば」


思わず、小さく笑ってしまう。


「そんなに?」


「そんなに」


即答だった。


「ちょっと座りなよ」


娘に言われるまま、ソファへ腰を下ろす。

その瞬間、全身から力が抜けそうになった。


「……」


夫がキッチンからマグカップを持ってくる。

湯気が立っている。


「とりあえず飲みな」


「……ありがと」


受け取ると、冷えていた指先にじんわり熱が広がった。


ようやく、自分の身体が冷え切っていたことに気づく。


「病院?」


夫が静かに聞く。


「……うん」


短く返す。


「急変して」


そこまで言って、喉が詰まる。


夫は、すぐには何も言わなかった。

急かさず、続きを待っている。


その沈黙がありがたかった。


「……落ち着いたけど」


ぽつりと続ける。


「まだ、わかんない」


マグカップを持つ手に、少しだけ力が入る。


「……」


ふと、言葉が零れた。


「ずっと、助けてもらってたんだよね」


独り言みたいな声だった。


「……あの子」


自然に名前の代わりみたいに出る。


「大丈夫ですって、笑うから」


胸の奥が、じわじわ痛む。


「私、甘えてた」


小さく落ちた言葉に、夫は静かに目を伏せる。


それから、小さく頷いた。


「……うん」


否定しない。

慰めで誤魔化さない。

ただ、ちゃんと受け止める。


その反応が、逆に苦しかった。


「その人、お母さんがよく話してた人?」


娘が、そっと聞く。


「……」


年上の女性は、少し目を見開いた。


気付いていなかった。

自分がどれだけ自然に、その人の話を家でしていたのか。


「……そう」


小さく返す。


「ずっと、一緒にやってきた子」


娘が静かに頷く。


「そっか」


それだけ言って、ブランケットを持ってくる。


「今日はもう寝なよ」


肩へそっと掛けられた温もりに、胸の奥が少しだけ緩む。


「……そうする」

小さく笑う。


窓の外では、まだ雨が降っていた。


静かに、絶え間なく。

ふと、雨の中で傘を傾けていた姿が浮かぶ。


“風邪ひきますよ?”


困ったみたいに笑っていた声。

あの時も、自分は守られていた。

気づかないまま。


「……」


今度は、ちゃんと支えたい。

その願いだけが、静かに胸の奥へ残っていた。

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