第六話|止めないための手
紙が擦れる音だけが、一定に続いていた。
一枚めくられるたびに、空気がわずかに動く。
その小さな揺れが、連なっている。
「……」
アリシアは机の前に立つ。
目の前には、積み直された書類。
さっきより、低くなっている。
触れた指先に、まだ紙の温度が残る。
少し冷えている。
長く、動いていなかった証拠だった。
「……」
一枚引き抜く。
視線が走る。
止まる位置を探す。
迷いはない。
「これは、後」
隣の山へ、滑らせる。
「これは、今」
別の束へ落とす。
音は小さい。
だが確かに、動いている。
「……」
隣で、アルノーが紙を受け取る。
指の動きに無駄がない。
渡された瞬間、もう次へ視線が移っている。
「それは三日以内だ」
短く落とす。
受け取った者の肩が、わずかに動く。
「次」
声が、低く続く。
机の上の束が、一つずつ崩れていく。
整えられるのではない。
流れていく。
「……」
アリシアは、もう一枚をめくる。
紙の角が、指に少し引っかかる。
そこだけ、わずかに歪んでいる。
「……」
目を通す。
視線が止まる。
一行。
その先へ、繋がっている。
別の書類と、さらに、その奥へ。
「……」
一瞬、紙を持ったまま、止まる。
「これ」
アルノーへ差し出す。
距離は短い。
「さっきの案件と同じ線上ね」
「……」
アルノーの指が、紙を受ける。
そのまま、視線が走る。
一瞬だけ。
ほんの一瞬。
「……はい」
それだけで返す。
声は短い。
だが、迷いはない。
「同じ基準で、組み込みます」
すぐに、動く。
紙が別の束へ入る。
そこで流れが変わる。
「……」
周囲の空気が、少しずつ変わっている。
さっきまでの“止まりかけた空気”はない。
代わりに、紙の音が一定になっている。
誰かが動く。
誰かが止まる。
誰かが受け取る。
その境界が、曖昧になっていく。
「……」
アリシアは、手を止めない。
視線も止めない。
ただ、見ている。
崩れていたものが、形を取り戻す瞬間を。
「……」
一枚、また一枚。
積まれていた書類が、目に見えて減っていく。
だが、軽くはならない。
重さは、別の場所に移っているだけだ。
「……」
ふと、横で一人の手が止まる。
紙を持ったまま、動かない。
視線が迷っている。
次の場所が、わからない。
「……」
アリシアは、そのまま見る。
「それ」
短く声を落とす。
視線が上がる。
「どこへ置くか迷うなら……基準を見て」
机の上を示す。
「自分で決めていい」
「……」
ほんのわずか、息を呑む音。
「間違ってもいい」
静かに続ける。
「止める方が、損失になる」
「……」
指が動く。
紙が、別の束へ落ちる。
音が、小さく響く。
「……はい」
今度は、迷いがない。
「……」
アルノーが、それを見ている。
何も言わない。
ただ、動きだけを見ている。
「……」
一瞬だけ、視線が交わる。
すぐに、逸れる。
それだけでいい。
言葉はいらない。
「……」
紙が減っていく。
机の上の山が、低くなる。
最初とは違う形になっている。
崩れではない。
流れだ。
「……」
アルノーが、低く言う。
「本来なら」
紙を置く音と重なる。
「ここまで来る前に、止まっています」
「……」
アリシアは、手を止めない。
一枚を取る。
視線だけを落とす。
「なら……」
短く。
「次は、止めないで」
「……」
ほんのわずか、アルノーの手が、一瞬だけ止まる。
「……承知しました」
低く、落ちる。
さっきより、少しだけ重い。
「……」
アリシアは、返さない。
ただ、次の紙へ。
その時、一枚だけ、他と違う質感の紙が混ざっている。
「……?」
指が止まる。
わずかに厚い。
インクの乾き方が違う。
「……」
開く。
視線が走る。
そして、止まる。
「……これ」
声が、落ちる。
紙の向こう側が——違う。
「……」
ゆっくりと、顔を上げる。
アルノーを見る。
「これは……どこまで広がっているの?」
「……」
アルノーの手が止まる。
今度は、長い。
それが——答えだった。




