第六話|止めない
夜の事務所は、まだ明るかった。
窓の外は、もう完全に暗い。
雨が降り始めたのか、時折ガラスを叩く音がする。
「……」
若い方は、机に向かっていた。
周囲の席は、少しずつ空いている。
だが、仕事は終わっていない。
電話も止まらない。
「……」
「はい」
受話器を取る。
「……確認します」
メモを取る。
急がずに、順番を崩さないように。
「……」
現場の声は焦っている。
人が足りない。
納品が遅れている。
空気も荒れているのがわかる。
「……」
以前なら、もっと強く返していた。
“先に進めてください”
“それ後です”
“止めないでください”
勢いのままに。
「……」
でも、今は違う。
「……今、誰が入ってますか?」
静かに聞く。
「……」
向こうの声が続く。
若い方は、最後まで聞く。
途中で遮らずに。
「……」
「わかりました」
小さく頷く。
「じゃあ、先にそちらを止めましょう」
「……」
一瞬、沈黙が落ちる。
「……止めるんですか?」
戸惑った声。
「はい」
迷わず返す。
「このまま進めると、あとで全部戻ります」
「……」
言葉にした瞬間。
胸の奥が、小さく揺れる。
「……」
あの人が言っていた。
同じ言葉だった。
「……」
「……わかりました」
向こうの声が、少し落ち着く。
「確認してくださって、助かりました」
「……」
若い方の指先が、一瞬止まる。
「……」
助かりました。
「……」
小さく、息を飲む。
「……いえ」
少し遅れて返す。
「こちらこそ、ありがとうございます」
「……」
電話が、静かに切れる。
「……」
受話器を置いたまま、少しだけ動けなくなる。
「……」
今、自然に言えた。
「……」
以前の自分なら、絶対に出てこなかった言葉だった。
「……」
胸の奥が、少しだけ熱い。
苦しいような、でも逃げたくない熱。
「……」
その時、別の机から声が飛ぶ。
「この件、確認お願いできますか!」
「……はい!」
すぐに返す。
立ち上がる。
「……」
事務所は、まだ不安定だった。
トラブルも続いている。
完璧には程遠い。
「……」
それでも、崩れてはいない。
「……」
誰か一人に、全部を押しつける形では、もうなくなり始めていた。
「……」
書類を受け取る。
視線を落とす。
「……」
隣の席が、空いている。
ずっと、そこにいるのが当たり前だった場所。
「……」
胸が、少しだけ痛む。
「……」
でも、止めない。
「……」
戻って来る場所を。
今度は、自分たちが残す。
「……」
時計を見る。
かなり遅い時間だった。
それでも、まだ帰る気にはなれない。
「……」
その時、机の上の携帯が、小さく震える。
「……」
視線を落とす。
年上からだった。
「……」
一瞬、呼吸が止まる。
急いで開く。
『落ち着いた』
短い文。
そのあとに、
『まだ予断は許さないけど』
「……」
胸の奥から、一気に力が抜けそうになる。
「……」
若い方は、崩れないように
咄嗟に机へ手をつく。
「……」
短く、目を閉じる。
「……よかった」
声が、掠れる。
「……」
涙が出そうになる。
でも、泣いて終わりにはしたくなかった。
「……」
顔を上げる。
まだ、仕事は残っている。
電話も鳴っている。
「……」
若い方は、小さく息を吸う。
それから、もう一度受話器を取った。
今度は、逃げずに。
支える側として。




