第五話|待つ側
病院の待合は、静かだった。
白い灯りが、床を淡く照らしている。
時間は夜へ近づいているはずなのに、ここだけ感覚が曖昧だった。
「……」
時計の針が動く音だけが、やけに響く。
規則的に、一定の速さで。
「……」
年上の女性は、椅子に座っている。
背筋は伸びていた。
崩れないようにする癖みたいに。
「……」
だが、膝の上で重ねた手には、力が入っている。
指先が、少し白い。
「……」
急変。
その言葉を聞いてから、胸の奥が落ち着かない。
呼吸を整えても、静かに座っていても。
ずっと、どこかが張りつめている。
「……」
白い扉を見つめる。
閉じられたまま、中の様子は見えない。
何もわからない。
「……」
消毒液の匂いが、薄く漂っている。
遠くで、カートの音がする。
看護師たちの足音が通り過ぎる。
それでも、ここだけ時間が止まったようだった。
「……」
ふと、隣で小さく布が擦れる音がする。
「……すみません」
か細い声。
「……」
視線を向ける。
そこにいたのは、あの人の母だった。
疲れているのがわかる。
目の下に、薄く影が落ちている。
それでも、無理に笑おうとしていた。
「……いえ」
年上は、静かに首を振る。
「……」
沈黙が落ちる。
気まずいわけではない。
ただ、何を言えばいいのか、わからなかった。
「……」
母親が、小さく息を吐く。
膝の上で、バッグを握り直す。
「……昔から」
ぽつりと零れる。
「抱え込む子だったんです」
「……」
年上の女性の指先が、わずかに動く。
「……頼られると」
続く。
「断れなくて……」
「……」
責める声ではなかった。
困ったような。
でも、どこか誇らしそうな。
長く見てきた人の声だった。
「……」
「家でも……大丈夫だからって」
「平気って笑うんです」
「……」
胸の奥が、少し痛む。
その笑い方を、知っていた。
「……」
辛そうでも、疲れていても。
あの人は、空気を崩さなかった。
「……」
“すみません”より先に。
“大丈夫です”って言う人だった。
「……」
母親が、寂しそうに小さく笑う。
「……だから」
「周りも、大丈夫だと思っちゃうんですよね」
「……」
その言葉が、まっすぐに静かに刺さる。
「……」
年上は、膝の上へ視線を落とす。
握ったままの手へ。
「……私は」
声が、少しだけ掠れる。
「気づいてたんです」
「……」
母親が、静かに顔を向ける。
「……でも」
言葉が続かない。
喉の奥で、止まる。
「……」
辛いって言われた時、ちゃんと止めなかった。
休ませなかった。
守らなかった。
「……」
“あの子なら大丈夫”
自分も、そう思っていた。
「……」
視界の端で、白い扉がぼやける。
「……ごめんなさい」
小さく零れる。
「……」
母親は、すぐには返さない。
少しだけ間を置いて。
それから、やわらかく首を振る。
「……あの子」
静かに言う。
「会社の人の話、よくしてました」
「……」
年上の女性が、顔を上げる。
「……厳しいけど」
「ちゃんと見てくれる人がいるって」
「……」
息が、止まる。
「……」
母親は、少しだけ目を細める。
思い出すように。
「だから」
小さく笑う。
今度は、少しだけ優しく。
「安心してたんです」
「……」
胸の奥が、苦しいほどに大きく揺れる。
「……」
自分はその信頼に、応えられていただろうか。
「……」
視線が、閉じた扉へ向く。
白いまま。
静かなまま。
「……」
年上は、小さく息を吸う。
震えないようにするみたいに。
「……今度は」
ぽつりと落とす。
「ちゃんと支えます」
「……」
その声は、強くはない。
だが、揺れなかった。
「……」
母親は、何も言わない。
ただ、小さく頷く。
「……」
時計の針が、また一つ進む。
時間だけが、静かに流れていく。
「……」
今は待つことしか、できない。
「……」
それでも、目を逸らさずに待っている。
今度は、逃げずに。




