第三話|置いていかれた側
翌朝の事務所は、少しだけ静かだった。
人はいる。
電話も鳴る。
仕事も止まっていない。
それでも、どこか空気が違う。
「……」
若い方は、自分の机に座っている。
手は動いていた。
書類を開き、確認をし、流れを整理する。
「……」
前と同じように、仕事は進んでいる。
だが、前と同じ感覚ではなかった。
「……」
病室の光景が、頭から離れない。
静かな部屋。
返事のない声。
眠ったままの姿。
「……」
胸の奥が、重い。
「……」
「これ、確認お願いします」
現場から書類が届く。
「……はい」
受け取る。
視線を落とす。
「……」
内容を見る。
以前なら、すぐに返していた。
「ここ直してください」
「先に進めます」
迷いなく、勢いのままに。
「……」
だが、今は止まる。
「……」
一行ずつ読む。
何を伝えたいのか。
どこが不安なのか。
そのまま、少し考える。
「……」
ふと、思い出す。
——その順番だと、あとで戻ります。
「……」
小さく息を吐く。
「……」
「ここ」
静かに声をかける。
「確認したいんですけど」
「……」
相手が顔を上げる。
少しだけ驚いたように。
「……はい」
「この流れにした理由、あります?」
「……」
一瞬、間が空く。
「現場だと、この順番の方が動きやすくて……」
「……」
若い方は、黙って聞く。
途中で遮らず、最後まで。
「……」
「なるほど」
小さく頷く。
「じゃあ、この説明だけ少し足しましょう」
「……」
相手の表情が、少し緩む。
「ありがとうございます」
「……」
その言葉に、胸の奥がわずかに揺れる。
「……」
前なら、こんな空気にはならなかった。
「……」
速く終わらせることばかり考えていた。
自分が回すことばかり。
「……」
でも、あの人は違った。
「……」
ちゃんと、相手を見ていた。
「……」
「……お疲れさまです」
現場へ戻る相手が、小さく頭を下げる。
「……」
若い方の指先が、止まる。
「……」
その言葉が、妙に残る。
「……」
あの人も、いつも言っていた。
“ありがとう”
“お疲れさま”
“助かります”
「……」
小さな言葉。
でも、ちゃんと空気を繋いでいた。
「……」
自分は、できていただろうか。
「……」
視線が、机へ落ちる。
積まれた書類。
回り続ける仕事。
「……」
以前と同じように動いているはずなのに。
違う。
「……」
足りない。
「……」
いや、違う。
「……」
今まで、自分が見えていなかっただけだ。
「……」
その時、電話が鳴る。
「……はい」
受話器を取る。
「……」
向こうの声は、少し強い。
現場のトラブルらしい。
「……」
以前なら、すぐに返していた。
「今やります」
「大丈夫です」
「流してください」
勢いのままに。
「……」
だが、若い方は一度だけ目を閉じる。
「……状況、順番に教えてください」
静かに言う。
「……」
向こうの声が、一瞬止まる。
「……」
それから、少し落ち着いた声で、話し始める。
「……」
若い方は、最後まで聞く。
途中で遮らずに。
「……」
メモを取る手が、ゆっくり動く。
「……」
あの人も、こんなふうに聞いていたのだろうか。
「……」
胸の奥が、少しだけ痛む。
「……」
置いていかれた気がした。
今さら、自分だけがようやく気づいた。
「……」
それでも、止まりたくはなかった。
「……」
あの人が戻ってきた時。
今度こそ、ちゃんと隣に立てるように。
「……」
若い方は、もう一度ペンを握り直した。
今度は、繋ぐために。




