第ニ話|返事のない場所
病院の廊下は、静かだった。
白い灯りが、床を淡く照らしている。
足音だけが、小さく響く。
「……」
二人は並んで歩いている。
だが、会話はない。
何を話せばいいのか、わからなかった。
「……」
若い方は、手の中の紙袋を握り直す。
途中で買った、小さな花。
何も持たずに行くのが嫌で、それだけだった。
「……」
年上の女性は、迷いなく
前を見たまま歩いている。
だが、少しだけ速い。
「……」
部屋番号を確認する。
足が止まる。
「……」
扉の前は、静かだった。
何も変わらない。
ただ、そこにある。
「……」
若い方の喉が、小さく動く。
今さらになって、緊張している。
「……入ろうか」
年上が、小さく言う。
「……はい」
返事が、少しだけ掠れる。
「……」
扉を開ける。
静かな音。
「……」
部屋の中は、明るすぎなかった。
やわらかい光。
機械の音が、小さく続いている。
規則正しく、変わらないリズムで。
「……」
眠ったまま、そこに、いる。
動かずに。
「……」
若い方の足が、一瞬止まる。
思っていたより、静かだった。
「……」
苦しそうではない。
だが、遠い。
「……」
年上が、先に近づく。
椅子を引く音が、小さく響く。
「……」
「来たよ」
静かに言う。
返事はない。
当然だ。
「……」
それでも、その声はやわらかい。
責めるでもなく、無理に明るくするでもなく。
ただ、話しかけるように。
「……」
若い方は、まだ立っている。
どうすればいいのか、わからない。
「……」
手の中の花を見る。
少しだけ包み紙が潰れている。
強く握っていたことに、今気づく。
「……」
「置いていいよ」
年上が、小さく言う。
「……」
若い方が頷く。
ゆっくり近づく、足音を立てないように。
無意識に。
「……」
花を棚へ置く。
小さなガラスの花瓶の横へ。
色だけが、少し浮いて見えた。
「……」
視線が、眠る顔へ向く。
「……」
変わらない。
本当に、いつも通りの顔だった。
少し困ったように笑いそうな、そんな雰囲気のまま。
「……」
胸の奥が、苦しくなる。
「……」
「……すみません」
小さく、零れる。
「……」
年上は、何も言わない。
止めもしない。
「……」
若い方は、視線を落としたまま続ける。
「……私」
喉が詰まる。
それでも。
「ちゃんと見てなかったです」
「……」
機械の音だけが、静かに続いている。
「……」
「自分が、一番やってると思ってました」
「……」
「速く動けるし」
「仕事回してるし」
「だから……」
言葉が止まる。
「……」
“うるさい”
その言葉が、頭に浮かぶ。
何度も思った。
思ってしまっていた。
「……」
唇を噛む。
「……」
「でも」
小さく息を吸う。
「全部、後ろで整えてくれてたんですよね」
「……」
視界が、少しだけ滲む。
「……」
「現場も」
「空気も」
「人も」
「……」
「私、何も見えてなかったです」
「……」
声が、掠れる。
「……」
年上が、静かに息を吐く。
「……見えてなかったのは」
小さく言う。
「私も同じだから」
「……」
若い方が、顔を上げる。
「……」
年上は、まっすぐに眠る姿を見ている。
「……甘えてた」
ぽつりと落ちる。
「大丈夫だと思ってた」
「……」
静かな声だった。
だが、その言葉は重い。
「……」
「辛いって言われた時も」
続ける。
「ちゃんと聞けなかった」
「……」
若い方の胸が、小さく痛む。
「……」
「私は」
声が震える。
「褒められたくて……」
「……」
言葉が崩れる。
「認められたくて」
「……」
涙を堪えるように、息を飲む。
「……だから」
「……」
あの人が、何か言いかけて。
でも、引いたこと。
「……」
自分が先に、「私やります!」と手を伸ばして。
そのまま、流してしまったこと。
「……」
「お願いしてもいい?」
困ったように笑って、そう言っていたこと。
「……」
全部、浮かぶ。
「……」
あの時は、任せてもらえたと思っていた。
「……」
違った。
「……」
繋がるように、譲ってくれていた。
空気が悪くならないように。
「……」
何も、わかっていなかった。
「……」
「ごめんなさい」
今度は、消さずにはっきり言う。
「……」
返事はない。
それでも、逃げずに残る。
「……」
年上が、静かに立ち上がる。
ベッドのそばへ寄る。
「……戻っておいで」
小さく言う。
「今度は、ちゃんとやるから」
「……」
その声は、強くはない。
だが、揺れない。
「……」
若い方は、その背中を見る。
「……」
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
苦しいのに、逃げたくないと思う。
「……」
病室の空気は静かだった。
返事はない。
変化もない。
「……」
それでも二人とも、もう目を逸らしてはいなかった。




