第四話|隣に立つ人
夜は、静かだった。
昼間の張り詰めた空気が、ようやく落ち着き始めている。
窓の外には、淡い月明かり。
庭の木々を白く照らし、風に合わせてゆっくり揺れている。
「……」
執務室の灯りは、まだ消えていない。
机の上には、整理途中の書類が残っている。
重ねられた紙。
開いたままの報告書。
インクの乾ききっていない署名。
「……」
数は減った。
だが、終わってはいない。
「……」
アリシアは、一枚ずつ目を通している。
視線は落ち着いている。
手も止まらない。
だが——
肩には、わずかに力が残っていた。
「……」
昼間の報告が、頭から離れない。
遅延。
契約の見直し。
管理体制への不信。
「……」
言葉そのものは静かだった。
だが、十分に重い。
「……」
指先で、紙の端を揃える。
無意識の動き。
整えていないと、落ち着かないように。
「……」
ふと、手が止まる。
閉じた書類の上へ視線を落とす。
「……」
自分で動けば、早い。
今でも、そう思う。
「……」
実際、その方が確実だ。
崩れない。
間違いも少ない。
「……」
だが——
それでは、同じだ。
「……」
小さく息を吐く。
静かな部屋に、その呼吸だけが落ちる。
疲れている。
その自覚はあった。
「……」
視線を窓の外へ向ける。
夜の庭は静かだ。
風も弱い。
木々の葉が、かすかに擦れる音だけが聞こえる。
「……」
その時、不意に気配が近づく。
廊下側から、一定の速さで迷いなく。
「……まだ起きていたか」
低い声が落ちる。
静かに、夜を乱さない声で。
「……」
振り向く。
「ええ」
短く返す。
「少しだけ」
「……」
ルシアンが部屋へ入ってくる。
扉を閉める音すら、静かだ。
歩幅は変わらない。
急がず、こちらを急かしもしない。
「……」
自然な動きで、机の横へ来る。
視線が書類へ落ちる。
それから、アリシアへ戻る。
「……顔が硬い」
率直に言う。
「そうかしら」
「そうだ」
間を置かずに返る。
「……」
その言い方に、わずかに口元が緩む。
ほんの少しだけ。
「……」
ルシアンが、一枚の書類へ視線を落とす。
指先で、軽く端を押さえる。
「北か」
短く言う。
「ええ」
「揺さぶりにしては、早いな」
「……」
その言葉に、視線を上げる。
「わかっていたの?」
「当然だ」
静かに返る。
「婚約を公にした以上」
書類を閉じる。
紙の音が、小さく響く。
「こちらが整う前に崩したい者は動く」
「……」
淡々としている。
だが、軽くはない。
現実として、そこに置かれる言葉。
「……」
アリシアは、視線を落とす。
書類へ。
「……まだ甘かったわね」
小さく落とす。
「そうか?」
すぐに返る。
「……」
ルシアンが、机に軽く手を置く。
体重はかけない。
ただ、そこにいるように。
「今日、崩れたか?」
「……」
答えが止まる。
昼間の光景が浮かぶ。
迷いながらも動いた手。
止まらなかった流れ。
「……いいえ」
静かに返す。
「止まってはいなかった」
「なら十分だ」
迷いなく言う。
「……」
その言葉が、胸の奥へ静かに落ちる。
否定しない。
責めもしない。
ただ、結果を見る。
「……」
ルシアンの視線が、わずかに柔らぐ。
「一人で抱え込まなかった」
低く言う。
「それだけでも、前進だ」
「……」
アリシアは、小さく息を吐く。
肩の力が、少しだけ抜ける。
「……簡単ではないわ」
静かに、本音が零れる。
「全部見えてしまうから」
「……」
ルシアンが、少しだけ目を細める。
「知っている」
短く返る。
「だから、お前は今まで潰れかけていた」
「……」
言葉が止まる。
否定できない。
「……」
沈黙が落ちる。
重くはない。
だが、静かに胸へ残る。
「……」
ルシアンが、ゆっくりと手を伸ばす。
急がずに、アリシアの手元へ。
「……」
指先に、触れる。
ほんのわずかに、熱を確かめるように。
「……」
そのまま、軽く包む。
強くはない。
だが、離さない形で。
「……」
指先から、じわりと熱が伝わる。
冷えていた感覚が、ゆっくり戻るように。
「……」
「任せろとは言わない」
低く、落ちる。
「……」
「だが……」
視線が、まっすぐ重なる。
「一人で立つ必要もない」
「……」
静かな声だった。
だが、揺れない。
「……」
アリシアは、その手を見る。
重ねられた指先。
逃がさない熱。
「……」
胸の奥で張り詰めていたものが、少しだけほどける。
痛みではなく、力が抜ける感覚で。
「……」
ほんの一瞬だけ、目を閉じる。
「……」
それから、ゆっくり開く。
「……頼るわ」
小さく言う。
前よりも、自然に。
「……」
ルシアンの指が、わずかに動く。
応えるように。
「それでいい」
すぐ近くで落ちる。
「……」
夜は、静かだった。
だが——
一人で抱えていた頃の静けさではない。
「……」
誰かが隣に立っている。
その気配が、確かにある。
揺れないまま、静かに。




