第六話|残っていたもの
朝の空気は、ひんやりとしている。
窓の外はまだ白く、光はやわらかい。
人の声も、どこか抑えられている時間。
「……」
扉の前で、ほんの一瞬だけ立ち止まる。
深く息を吸うほどでもない。
ただ、呼吸を整える。
それから、開ける。
「……」
中は、すでに動いている。
紙の擦れる音。
小さな足音。
短いやり取り。
どれも大きくはないが、途切れない。
「おはようございます」
昨日より、少しだけ落ち着いた調子で、声が上がる。
「……おはよう」
年上の女性が短く返す。
それだけで、十分だった。
「……」
机の上を見る。
紙は並んでいる。
端が揃い、向きも揃っている。
昨日よりも、手直しされた跡が少ない。
「……」
若い方が動いている。
ペンを持つ手は速い。
だが——
ふと、止まる。
「……」
視線が、書類の一行に落ちる。
そのまま数秒、動かない。
「……」
「これ」
自分に確認するように、小さく言う。
「先に確認、入れます」
言葉にしてから、顔を上げる。
「……」
年上が、視線だけで頷く。
言葉はない。
だが、止めない。
「……」
少し高い音で、電話が鳴る。
若い方が受話器を取る。
「……はい」
昨日よりも、少しだけ低く、声は落ち着いている。
「状況、確認させてください」
間を置いてから、続ける。
急がない。
「……」
向こうの声が続く。
長い。
「……はい」
すぐには返さない。
最後まで聞く。
途中で挟まない。
「……」
「ありがとうございます」
一拍おいて、小さく言う。
「整理して、こちらからご連絡します」
言葉を選ぶように、ゆっくりと。
「……」
通話を切る。
そのまま、受話器を戻す手が少しだけ止まる。
「……」
机に戻る。
書類を一枚、手に取る。
視線を落とす。
「……」
指先で、端を揃える。
軽く、叩くように。
「……」
「ここ、一回止めます」
静かに言う。
「戻りそうなので」
「……」
年上が頷く。
「いいね」
短く、それだけ。
「……」
空気が、少しだけ緩む。
張りつめていたものが、ほどけるように。
「……」
動き出す。
今度は急がずに、順番を確かめながら、一つずつ。
「……」
流れている。
止まってはいない。
だが——
ぶつかってもいない。
「……」
現場の担当が近づく。
足音が、少しだけ早い。
「この件、さっきの続きです」
「……」
若い方が顔を上げる。
「はい」
視線を合わせる。
「今整理してるので、少しだけお時間ください」
言い切る前に、少しだけ間を置く。
「……」
担当が、頷く。
表情が、やわらぐ。
「……わかりました」
安心したように下がる。
「……」
その背中を、ほんの少しだけ目で追う。
「……」
前は、なかった反応。
「……」
胸の奥に、小さく残る。
「……」
年上が、机を見ている。
手は出さない。
だが、視線は外さない。
必要なところだけ、見ている。
「……」
前とは違う形で、支えている。
「……」
ふと、視線が机の端に落ちる。
わずかな汚れ。
光に当たって、少しだけ浮いて見える。
「……」
前なら、もう消えていた場所。
「……」
手が伸びる。
何も言わずに、布を取る。
「……」
軽く、拭く。
一度、それだけ。
「……」
誰も、何も言わない。
だがその動きが、自然に流れに混ざる。
止めない。
邪魔もしない。
「……」
静かだ。
音はある。
だが、乱れていない。
「……」
「……やれてるね」
独り言のように、年上が小さく言う。
「……」
若い方が顔を上げる。
少しだけ、間を置く。
「……まだです」
短く返す。
視線は逸らさない。
「……」
「でも……」
息を整えるように。
「やります」
はっきりと。
「……」
年上が、わずかに頷く。
それ以上は言わない。
それで、足りる。
「……」
机を見る。
紙が動いている。
流れが続いている。
止まらずに。
「……」
思う。
これは、最初からあったものじゃない。
「……」
残されていたものだ。
「……」
やり方。
言葉。
空気。
「……」
そして、繋ぎ方。
「……」
それを今、拾っている。
一つずつ、確かめながら。
「……」
完璧ではない。
まだ、足りない。
「……」
それでも、止まってはいない。
「……」
確かに、前に進んでいる。
「……」
あの人がいなくても、回る。
「……」
でも。
「……」
あの人がいたから、ここまで来ている。
「……」
そのことだけは、もう迷わなかった。




