第四話|言えなかったこと
夕方の空気が、ゆるくほどけていく。
窓の外の光も、少しずつ色を落としている。
「……」
机の上は、整っている。
朝に比べれば、ずっと。
紙の列も揃い、流れも止まっていない。
「……」
確かに、回っている。
「……」
それでも——
どこか、引っかかる。
「……」
「これ、終わりました!」
変わらずに、明るい声が上がる。
「次、やりますね!」
間を置かずに続く。
手はもう、次の書類へ伸びている。
「……」
年上の女性が、ゆっくり顔を上げる。
「一度見せて」
静かに言う。
声は強くない。
だが、止める力がある。
「え?」
ほんの一瞬、手が止まる。
「流す前に」
短く続ける。
「……」
少しだけ間が空く。
視線が、手元と顔の間で揺れる。
「……はい」
書類を差し出す。
さっきまでの勢いが、わずかに落ちる。
「……」
受け取る。
紙の端が、指先に触れる。
少しだけ冷たい。
「……」
目を落とす。
一行ずつ追う。
流れは速い。
整っているように見える。
「……」
だが、指が止まる。
一か所。
ほんのわずかなズレ。
「……」
「ここ」
軽く指で示す。
「あとで戻る」
短く言う。
「……」
若い方の視線が、そこに落ちる。
「……でも」
少しだけ早く、口が開く。
「今のうちに進めた方が——」
「戻る」
今度は、はっきりと重ねる。
指先が、その位置を軽く叩く。
「……」
音が、小さく響く。
「……はい」
言葉が止まる。
そのまま、引き下がるように返す。
「……」
手が、書類から離れる。
ほんの少しだけ、ゆっくりと。
「……」
その動きを、見る。
「……」
前なら、ここで言っていた。
「……」
“後で困るよ”
「……」
その言葉が、頭の中に浮かぶ。
はっきりと、あの声で。
「……」
胸の奥が、わずかにざわつく。
「……」
「……すみません」
ぽつりと落ちる。
ほとんど音にならないくらいに。
「……」
「何が?」
年上が、顔を上げる。
「……」
一瞬だけ、視線がぶつかる。
「……」
言葉が、出ない。
喉の奥で止まる。
「……」
「……いや」
すぐに打ち消す。
少しだけ笑ってみせる。
「大丈夫です」
明るく言い直す。
「……」
その声が、少しだけ浮く。
空気に馴染まない。
「……」
年上は、何も言わない。
ただ、見ている。
長くはない。
だが、逸らさない視線で。
「……」
耐えきれず、目を逸らす。
机に戻る。
いつもより速く、手を動かす。
「……」
だが、指先が、わずかに迷う。
書類の順番が、一瞬だけずれる。
「……」
何事もなかったように、整え直す。
「……」
「……それ」
静かに、年上の声が入る。
「一回、止めて」
「……」
今度は迷わずに、手が止まる。
「……はい」
素直に返す。
その声に、自分で少しだけ驚く。
「……」
前なら、もう一言返していた。
「……」
“効率悪くないですか?”
「……」
だが、浮かぶ。
出てこない。
「……」
代わりに、別の記憶が浮かぶ。
「……」
「それ、私やります!」
自分の声が、はっきりと。
少しだけ強く。
「早い方がいいですよね!」
「……」
あの時、相手は——
少しだけ困った顔で。
ほんのわずかに視線を落として。
「……お願いしてもいい?」
そう言って、笑った。
「……」
その表情が、残る。
消えない。
「……」
胸の奥が、じわりと重くなる。
「……」
あの時は、気づかなかった。
「……」
任せてもらったと思っていた。
「……」
違う。
「……」
任されていたのは、もっと別のものだった。
「……」
ほんの一瞬、手が止まる。
ペン先が紙に触れたまま。
「……」
止めないように、すぐに動かす。
「……」
仕事は進む。
流れは止まらない。
「……」
それでも。
「……」
足りていない。
「……」
それが、わかる。
はっきりと、逃げられない形で。
「……」
「……何で」
小さく、零れる。
ほとんど息に混じるくらいに。
「……」
「……何で、あの人は」
続かない。
まだ、言葉にできない。
「……」
ただ一つだけ。
残る。
「……」
自分は、速いだけだった。
「……」
その事実だけが、静かに沈んでいった。




