第三話|取りに行った人
夕方の空気は、少しだけ重い。
仕事を終えたばかりの人の流れが、駅の外へとゆっくり吐き出されていく。
いつもなら、そのまま帰る時間。
だが——
足は止まらない。
「……」
見慣れない道を、まっすぐ進む。
同じような建物が並ぶ中で、目的の場所だけが少し静かに見えた。
「……」
入口の前で、足が止まる。
ガラス越しに見える明かりは柔らかい。
外の喧騒とは、少しだけ切り離されている。
「……」
来ると決めたのは、自分だ。
それでも、手を伸ばすまでに、ほんのわずかな間がある。
「……」
そのまま、押す。
ドアが静かに開く。
「……失礼します」
声は、思ったよりも落ち着いていた。
「……」
中は、静かだった。
人の気配はあるのに、音が少ない。
歩く音も、自然と小さくなる。
「……」
短く、名前を告げる。
「少しだけ」
それだけ付け加える。
「……」
案内される。
白い廊下。
足音が、やけに響く。
「……」
一歩進むたびに、胸の奥が少しずつ締まる。
理由は、わかっている。
それでも、止まらない。
「……」
扉の前で止まる。
軽く、ノックをする。
返事はない。
当然だ。
「……」
静かに、扉を開ける。
「……」
部屋の中は、柔らかい光に包まれていた。
強すぎない照明。
窓際のカーテンは半分閉じられている。
「……」
小さな音が、一定の間隔で続いている。
機械の音。
規則正しく、変わらないリズムで。
「……」
そこに、いる。
動かないまま、眠っている。
「……」
思っていたよりも、穏やかだった。
苦しそうではない。
ただ、静かに時間の中にいる。
「……」
一歩、近づく。
無意識に、足音を立てないように。
「……」
椅子に手をかける。
少しだけ引く。
その小さな音すら、ここでは大きく感じる。
「……」
正面に座る。
距離は、手を伸ばせば届くくらい。
だが——
遠い。
「……」
目が、自然と止まる。
指先。
わずかに乾いた唇。
整えられた髪。
いつも通りに見えるのに、どこか違う。
「……」
顔へ、視線を戻す。
「……」
何を言うか、頭の中で探す。
いくつも浮かぶ。
だが——
どれも、軽く感じる。
「……」
言い訳は、出てこない。
出したくもない。
「……」
一度だけ、息を整える。
胸の奥に、溜まっていたものを押し込むように。
「……来たのは」
声が、少しだけ低くなる。
「お礼を、言いに」
「……」
返事はない。
当然だ。
「……」
それでも、続ける。
止めない。
「今まで」
ゆっくりと、言葉を選びながら。
「助けてもらってたこと」
「……」
喉が、少しだけ詰まる。
「ちゃんと、わかってなかった」
逃げないように、はっきりと言う。
「……」
視線が、わずかに揺れる。
「……ごめん」
小さく、それだけ。
「……」
何も返ってこない。
責める声も、困ったような笑いも。
あの、少しだけ遠慮した言い方も。
「……」
それが、少しだけ痛い。
遅すぎたと、思う。
それでも——
言わないよりは、いい。
「……」
顔を上げる。
眠ったままの姿を見る。
「……」
「戻ってきて、とは言わない」
自分に言い聞かせるように、静かに言う。
「……」
「でも……」
指先に、わずかに力が入る。
「戻れる場所は、残す」
言い切る。
「……」
胸の奥のざわつきが、ゆっくりと収まっていく。
「……」
「今度は、ちゃんと」
迷わずに、続ける。
「……」
沈黙が戻る。
同じように、変わらずに。
「……」
手が、わずかに動く。
伸ばしかけて、止まる。
触れれば、何か変わる気がした。
でも——
変わらないとも、わかっている。
「……」
触れないまま、そっと引く。
それでいいと、決める。
「……」
立ち上がる。
椅子が、小さく音を立てる。
来た時よりも、その音は軽い。
「……」
扉へ向かう。
足は迷わない。
「……」
手をかける。
止まらない。
「……」
振り返らない。
もう、言うことはないから。
「……」
扉を開ける。
外の空気が流れ込む。
少しだけ冷たい。
だが、軽い。
「……」
今度は迷いなく、歩き出す。
「……」
取りに来たものは、もう手の中にある。
「……」
それは、誰かではない。
「……」
自分が、立つ場所だった。




