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甘い連絡手段

あの「55円事件」からしばらく経った、ある週末の夜のことだ。


相変わらず俺と力は、熱気と人波でごった返す繁華街の通りをぶらついていた。


「おい拓海、今日はどうする? 俺、明日は普通に仕事だからな。早めに勝負決めろよ」


「分かってるって。力、あっちから歩いてくる二人組、ちょっと声かけてみるぞ」


「はいはい、出たよ。お前の『下手な鉄砲』な。俺はもう呆れて声も出んわ」


力はそう言いながらも、手慣れた様子で俺の後ろについてくる。


「こんばんは! ねぇ、これからどこ行くの? 俺たちと軽く一杯飲みに行かない?」


声をかけると、小柄で可愛らしい雰囲気の女の子が足を止め、隣の友達と顔を見合わせてクスッと笑った。


「えー、急に言われても困ります。私たち、これから帰るところだし」


「まあまあ、30分だけでもさ。あ、怪しい者じゃないよ! ほら、このマヌケ面したのが俺の同期の大迫力。見た目通り害はないから」


「『だいはくりょく』の『オオサコリキ』です」


力の自己紹介に女の子たちが吹き出し、そのまま近くの居酒屋へ流れ込むことになった。


酒が進むにつれ、その小柄な女の子――由紀(ゆき)ちゃんと一気に距離が縮まった。


ノリが良くて、笑うと目が細くなるのが印象的な子だった。


盛り上がった勢いで、俺はふと大事なことに気づく。


「そういえば由紀ちゃん、普段は何やってるの? 学生?」


「うん、大学生。駅前の洋菓子店でバイトもしてるけど」


「へえ! ケーキ屋さんか、似合うなぁ。じゃあさ、今度また飲みに行こうよ。電話番号教えてよ」


俺がそう言うと、由紀ちゃんは少し困ったような顔をして首を振った。


「うーん……うち、厳格な父親と同居してるから、家の電話番号は教えられないんだよね。夜に男の人から電話かかってきたら、お父さん激怒しちゃうし」


「あー、そっか……。それじゃ連絡取れないな。俺たちの寮の電話も共同だから。それに滅多に部屋にいないし」


1985年。ポケットベルすらまだ普及していない時代だ。電話番号が交換できないとなると、この出会いも今夜限りで立ち消えてしまう。


思案に暮れていると、由紀ちゃんがいたずらっぽく微笑んだ。


「じゃあさ……お店に来てよ」


「え?」


「私、水曜と金曜の午後はだいたいシフト入ってるから。駅前の『ル・ポワソン』ってお店。そこでケーキ買ってくれたら、私、店頭にいるから」


「ケーキを買うのが、連絡手段……?」


「そう! 私に会いたくなったら、ケーキ買いに来て。そしたら、次の約束決めましょ」


隣で聞いていた力が、呆れたようにビールを煽りながら口を挟んだ。


「お前ら、なんの少女漫画だよ。拓海、お前みたいな酒飲みがケーキなんて買えんのか?」


「買うに決まってんだろ! よし、絶対に買いに行くからな!」


◇

数日後の金曜日。俺は約束通り、駅前の『ル・ポワソン』のドアをくぐっていた。


ガラガラとベルが鳴る店内には、甘いバターと砂糖の香りが充満している。


男ひとり、あまりにも場違いな空間だった。冷や汗をかきながらショーケースを覗き込んでいると、奥から奥から奥からエプロン姿の由紀ちゃんが出てきた。


「いらっしゃいませ――あ! 本当に来てくれたんだ!」


「おう、約束だからな。……つーか、男ひとりでこの店入るの、めちゃくちゃ緊張したぞ」


「ふふ、ありがとう。で、どれにする?」


「うーん、どれが美味いのかさっぱり分からん。おすすめ全部くれ」


「全部!? 拓海さん、そんなに甘いもの食べるの?」


「いや、これから『オーキッド』行くから。あそこのママと常連たちにお裾分けするんだよ」


由紀ちゃんは嬉しそうに目を輝かせ、イチゴのショートケーキやモンブランを丁寧に箱へ詰めてくれた。


箱を渡されるとき、指先がかすかに触れる。


「ねえ、拓海さん。今日のバイト、20時に終わるんだけど……」


「よし、20時に店の前で待ってる。終わったら一緒にオーキッド行こうぜ」


◇

その夜、スナック『オーキッド』のカウンターには、色とりどりのケーキが並んでいた。


「あら嫌だ、拓海ちゃん! 男のくせにケーキなんてぶら下げて……と思ったら、こんな可愛い子連れてきたの!?」


ママが目を丸くして声を張り上げると、ボックス席にいた常連の客たちも一斉に振り返った。


「なんだ拓海、ついにケーキで女の子を釣るようになったのか!」


「ママ、これ由紀ちゃんがバイトしてる店のケーキなんだよ。みんなで喰おうぜ」


俺が箱を開けると、力もいつの間にか隣に座ってショートケーキを頬張っていた。


「うめえ! 拓海、お前ナイスだな。これからは毎週ケーキ買ってこいよ」


「バカ言え、俺の小遣いが飛ぶわ!」


ワイワイと賑わう店内で、由紀ちゃんは楽しそうにグラスを傾けていた。


固定電話もメッセージもない時代。


ケーキを1箱買うという、まどろっこしくて甘いステップを踏まなければ繋がれない関係。


でも、あの頃の俺たちにとっては、その不便さこそが最高に愛おしく、ドラマチックだったのだ。

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