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伊豆へのドライブ

カーナビもスマホの地図アプリもない時代、頼りになるのはロードマップの記憶と自分の勘、そして「抜け道を知っている」という根拠のない自信だけだった。


車を走らせれば必ずどこかで渋滞に捕まり、地図を広げては迷い、辿り着いた先で目当てのものに振られる。


今の時代なら「無駄な時間」と切って捨てられるようなドタバタ劇も、不思議と愛おしい思い出として胸に残っている。


あの時、伊豆の風とみかん畑の香りを突き抜けて走った一日を思うと、今でも胸の奥が少しだけくすぐったくなる。


【1985年・初夏】

「拓海、お前静岡の方に詳しいだろ。タカアシガニって知っているか?」


土曜の昼下がり、オーキッドはまだ喫茶タイム。ビールを飲みながら、夜の営業開始を待っていた。


そんな時に、力が不意にそんなことを尋ねてきた。


「タカアシガニ? そんなの知らないよ。そもそも静岡でカニなんて捕れるのか?」


「捕れるらしいんだよ。世界一デカいカニで、めちゃくちゃ美味いらしい」


旅行雑誌を見せて来た。


その時、奥の扉が開き、蘭ママと修さんが入ってきた。ママは大きなサングラスを額に載せ、どこか楽しそうに笑っている。


「あら、タカアシガニの話? だったら明日、みんなで食いに行きましょ!」


「えっ、明日ですか!?」


「男は度胸、思い立ったら吉日よ。修ちゃん、明日車出せる?」


「お安い御用ですよ、ママ」


修さんがニヤリと笑う。こうして、俺と力、修さん、そして蘭ママという謎のメンツで、急遽伊豆への日帰りドライブが決まった。


翌朝、修さんの愛車のXXに乗り込み、目指すは駿河湾に面した西伊豆の港町・戸田(へだ)だ。


東名高速を飛ばしている間は順調そのものだったが、伊豆半島に入った途端、行楽客の車で道路は大渋滞に巻き込まれた。


ノロノロ運転に痺れを切らした俺は、後部座席から声を張った。


「修さん、ここ右に折れてください! 俺、伊豆の裏道知ってますから!」


「おい拓海、本当だろうな?」と力が怪しむ。


「任せろって!」


自信満々に案内したルートは、国道を外れた途端に道幅が狭くなり、気付けば車一台がやっと通れるほどの急勾配なコンクリート舗装の道へとなっていた。


両脇に広がるのは、たわわに実るみかん畑。


「ちょっと拓海……これ、本当に抜け道なの? みかん農家の作業道じゃないの!?」


力が青ざめた顔で窓の外を見る。対向車が来たら一発アウトの細道で、修さんは「ハハハ、スリルがあって面白いじゃないか」とハンドルを握り直す。


ハンドルを切るたびに、みかんの葉がサイドミラーにカサカサと擦れる音が響いた。


「拓海ちゃん、みかん狩りツアーになっちゃってるじゃないのよ!」


後部座席でママが大爆笑し、車内は妙な一体感と興奮に包まれた。


冷や汗をかきながらどうにかみかん畑を通り抜けると、眼下にはパッと蒼い駿河湾が広がった。


「ほら見ろ! ちゃんと着いたろ!」


「冷や冷やさせやがって……」と力が胸を撫でおろす。


しかし、本当の試練はここからだった。


蛇行する山道を下り、港町の戸田に辿り着いたのは昼過ぎ。目的のカニ料理屋の暖簾を潜ると、店主が申し訳なさそうに眉をひそめた。


「お兄さんたち、ごめんねぇ。タカアシガニの漁期は先月で終わっちゃって、いまは禁漁期に入ったんだよ。次は秋にならないと食べられないね」


ガーン、と頭を殴られたような衝撃が走った。


「時期外れ……」

力とその場に崩れ落ちそうになる俺たちを見て、蘭ママがポンと手を叩いた。


「あら嫌だ、残念! でもいいじゃない、海鮮丼でも食べて帰りましょ。今日の旅行代――ガソリン代も高速代もご飯代も、全部私が出してあげる!」


「えっ、ママ、いいんですか!?」


「うん、安心して」ママは人差し指を立ててニヤリと笑った。「お店のツケの帳面にしっかり載せておくから」


「結局俺たちの借金かよ!」


力と顔を見合わせ、俺たちは思わず噴き出した。カニには振られたが、獲れたての地魚の海鮮丼は飛び切りの美味さだった。


帰り道も渋滞に揉まれ、店のある街に戻ってきた頃にはすっかり夜になっていた。


疲れ果てたママは「はあ、疲れた! 早くお家帰って寝たいわ〜」と何度も連呼していたが、店に着いた途端、


なぜか「よし、無事帰還の乾杯をするわよ!」とオーキッドを臨時開店させてしまった。


カウンターに座り、冷えたグラスを傾ける。


「カニは食えなかったし、道には迷うし、散々でしたね」と力が笑う。


「道は間違って無い。あれで1時間は短縮出来たはずだ」と拓海


「そうだな、あのみかん畑の急坂は最高にスリリングだったぞ」と修さん。


「秋になったら、またあのツケの帳面を増やしに戸田へ行きましょ」とママがウインクした。


カニの味は知れなかったけれど、車内に満ちていたみかんの香りと笑い声だけで、十分に胸がいっぱいだった。


【現在(64歳)】

あの秋、俺たちが再び戸田へ向かったかどうか――それはまた別の話だ。


今や伊豆の道路もすっかり綺麗になり、ナビを使えば迷うことも、ネットで調べれば時期外れの店に飛び込むこともなくなった。


けれど、思い通りにいかない遠回りにこそ、人生の味わいが詰まっていたのだと、64歳になった今ならよくわかる。


「無駄な時間」を笑い合える仲間がいた、あの煌めくような春の日に、乾杯を贈りたくなる。

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