聖地巡礼
今はどこへ行くにもスマートフォンを取り出し、SNSで「バズっている場所」や映画のロケ地をあらかじめ調べてから出かける時代だ。
画面越しに見た景色をなぞり、写真を撮って満足する。
だが、昔は違った。ガイドブックのどこにも載っていない「誰も知らない秘密基地」を持っている男こそが、一番粋だったのだ。
後になって知ったことだが、あの日『ノーススター』の隣にあった店は、映画や刑事ドラマ、カラオケの背景映像で誰もが一度は目にする、あの有名なバーだった。
当時はそんなこととは露知らず、ただの静かな港の店だと思っていた。
そして何より痺れるのは――世間がテレビ画面越しに憧れていたその有名店の横で、俺たちが修さんに連れられて『ノーススター』の鍵を開け、プライベートな夜を明かしていた場所こそが、実は業界の人間しか知らない「本当のロケ地」だったということだ。
画面の向こうの華やかさの、さらに深奥にある本物。あの日、23歳の俺たちは、お金を払うだけでは絶対に買えない横浜の最高の夜を見せてもらった。
【1985年・秋】
「よし、今夜はとっておきの面白いところへ行くぞ」
週末の夜、関内にあるスナック『オーキッド』のカウンターで、修さんがグラスを置いた。
同行するのは、俺と力、そしてオーキッドのママである蘭さんと、アルバイトのゆみちゃんだ。ゆみちゃんは店のみんなから可愛がられているアイドル的な存在で、この夜は未成年ということもあり、酒を一滴も飲んでいなかった。
「はーい!今夜の運転手は私ね!」
ゆみちゃんがキーを掲げて笑う。向かう車は修さんの愛車、「セリカXX」だ。直線的で鋭いノーズが死ぬほどカッコいいクーペだが、大きな問題がひとつあった。2ドアなのだ。
運転席にゆみちゃん、助手席に修さん。そして狭い後部座席に、大柄な俺と力、そして華やかなドレス姿の蘭ママの3人が押し込まれることになった。
「ちょっと拓海くん、肩寄せて!狭いじゃない!」
「すみません蘭ママ!力、お前もう少し右に詰めろよ!」
「無理だよ拓海、俺の膝がドアにめり込んでんだよ!」
ぎゅうぎゅう詰めの車内で悲鳴と笑いが巻き起こる中、セリカXXは潮風吹き抜ける大黒埠頭へと走った。
当時は今ほど未成年飲酒や飲酒運転の取り締まりが厳しくない時代だったが、コンプライアンスをきっちり守ってシラフのゆみちゃんが運転するセリカは、港の暗闇を軽快に駆け抜けていく。
やがて車が止まったのは、大黒埠頭の埠頭脇。
大きなバーの明かりが遠くに見える横に、ポツンと佇む小さな店があった。看板には『ノーススター』とある。だが、店内は真っ暗で鍵がかかっていた。
「修さん、閉まってますよ?」
俺が言うと、修さんはニヤリと笑って「ちょっと待ってろ」と隣の店『サザンクロス』へ向かった。窓越しに見えると、修さんは奥から出てきたオーナーらしき渋い男と親しげに肩を叩き合い、笑い交わしている。そして、小さな銀色の「鍵」をひとつ、受け取って戻ってきた。
「よし、開けるぞ」
カチャリ、と鍵を回して扉を開けると、そこは重厚なカウンターとソファーが並ぶ、静まり返ったバーだった。
修さんは壁のスイッチを入れ、店内の控えめな照明を灯す。
「ここはな、オーナーのプライベート空間みたいなもんだ。信頼できる奴にしか鍵を貸さない。今夜は俺たち5人だけの貸切だ」
「うわぁ……すごい!秘密基地みたい!」
ゆみちゃんが目を輝かせ、蘭ママも「修ちゃん、相変わらずいい顔持ってるじゃないの」と感心したように微笑んだ。
「お酒はカウンターに入って自分たちで注ぐんだ。好きなのを飲め」
修さんの言葉に、一気にテンションが上がったのは同期の力だった。
「俺、カクテル作ってみます!バーテンダーみたいにシェイカー振ってみたかったんですよ!」
力はカウンターの奥へ回ると、棚からシェーカーを取り出し、ジンと材料を注ぎ入れた。特大の身振りでカチッと蓋を閉めると、胸の前で勢いよくシェイクし始めた。
――シュッ……シュッ……シュッ……。
静かな店内に、虚しく響く布が擦れるような音。
「……ちょっと力、氷、氷!」
俺が突っ込むと、力はハッと目を見開いた。
全員が爆笑に包まれた。気取っていた力が顔を真っ赤にし、照れくさそうに頭をかく。
ゆみちゃんが壁際に見つけたジュークボックスにコインを投入する。軽快な1960年代のオールディーズが流れると、ゆみちゃんが「拓海くん、踊ろうよ!」と俺の手を引っ張った。
俺たちはソファーの前のわずかなフロアへ躍り出た。
弾むようなロックンロールのビートに合わせて、腰をひねり、膝を上下に落とすようにツイストを踊る。
指を鳴らし、ステップを踏み鳴らしながら顔を見合わせて笑う。
手を取り合ってくるりとターンさせると、ゆみちゃんの髪がふわっと揺れて、ほのかな甘い香りが鼻をくすぐった。
青春そのもののような、弾ける時間だった。
やがて曲が終わると、カウンターの奥から修さんが静かに次のコインをジュークボックスへ滑り込ませた。
流れてきたのは、しっとりとしたサックスの音色が響くスローバラードだった。
店内の照明が一段と落ちたように感じるほどの静寂と情調。修さんは一人、カウンターで琥珀色のグラスを傾けながら煙草の煙を燻らせている。
その雰囲気に引き込まれるように、自然と俺とゆみちゃん、そして力と蘭ママは身体を寄せ合った。
ゆみちゃんの肩にそっと手を回し、胸元でゆっくりと揺れるチークダンス。さっきまでの賑やかなツイストとは打って変わり、お互いの体温と息遣いだけが伝わる距離。
恋愛感情とは違う、けれど確かに胸がキュッとなるような、23歳ならではの甘酸っぱい鼓動を感じていた。
ふと横を見ると、力も蘭ママの腰に遠慮がちに手を添え、緊張した面持ちでぎこちなくステップを踏んでいる。
蘭ママはそんな力を包み込むような優しい微笑みを浮かべ、静かに身体を預けていた。
窓の向こうには、横浜港の暗い海と対岸の街明かり。
無音でシェイカーを振っていた力も、フロアでステップを踏んでいた俺たちも、このスローバラードが流れる空間の中で、少しずつ大人の男の顔になっていくのが分かった。
「修さん、本当に最高の場所ですね」
俺が呟くと、修さんはグラスの中の氷をカランと鳴らし、静かに目を細めた。
「だろ? 大人になったらな、こういう誰も知らない場所で、大切な仲間と笑って、踊れるのが一番カッコいいんだよ」
【現在(64歳)】
今でもテレビの刑事ドラマの再放送や、カラオケの背景映像であの港のバー『サザンクロス』が映るたび、俺は一人でニヤリとしてしまう。
画面の前で「ここ知ってる!」と騒ぐ若者たちを横目に、俺の脳裏に浮かぶのは、その隣にあった本当のロケ地『ノーススター』。
無音でシェイカーを振っていた力の間抜けな顔と、スローバラードに乗せて踊ったゆみちゃんの暖かな体温だ。
世間が群がる有名店のすぐ隣で、自分たちだけのレコードをかけ、潮風を感じながらグラスを傾け、踊り明かしたあの夜。
「お金を払うだけでは買えない、人と人との付き合いが生む贅沢」
それを知った22歳の秋の夜風は、今も俺の胸の中で、どこまでも熱く吹き抜けている。




