夜景が見えない港のバー
今の若い奴らの店選びを見ていると、時々くすぐったい気分になる。スマホを叩いてはレビューの星の数を気にし、「映える夜景」が見える席をあらかじめ予約する。失敗したくない気持ちは分からなくもないが、どこか味気ない。
本当にカッコいい大人の店選びというものは、「そこから何が見えるか」ではなく「そこで誰とどう過ごすか」なのだと、30代半ばだったオーキッドの常連修さんに教わった。
老朽化による建て替えのため、今はもうなくなってしまったあのホテル。
1985年のあの日、俺たちは夜景なんて一切見えない、暗がりの中のグラスと向き合っていた。
【1985年】
「いいか拓海、力。今夜は本当の『いいバー』ってやつに連れて行ってやる」
オーキッドの常連で医者の修さんはそう言って、俺と力を山下公園のすぐ近くに佇む「ホテル ザ・ヨコハマ」へ連れ出した。
当時の俺たち23歳にとって、そのホテルは眩しすぎる存在だった。
重厚な回転ドアを抜け、エレベーターで最上階へ向かう間、俺の胸は高鳴っていた。
最上階のラウンジといえば、大きなガラス窓越しに山下公園の闇と、港を行き交う船の明かり、そして横浜港の夜景が一望できるはずだ。
そんな場所で酒を飲む自分を想像し、少し鼻が高くなる感覚があった。
エレベーターが最上階に到着し、フロアに降り立つ。眩い夜景が広がるラウンジの入口が見えた――と思った瞬間、修さんは足を止めなかった。
修さんはラウンジの脇を通り過ぎ、フロアのさらに奥、静まり返った廊下へと迷いなく足を進めていく。
「修さん、ラウンジはあっちでは……?」
俺が声をかけると、修さんは振り向きもせずニヤリと笑った。
突き当たりにあったのは、重厚な一枚板のマホガニーの扉。窓など一切ない、落ち着いた明かりが漏れる「メインバー」だった。
扉を開けると、そこは別世界だった。
重厚な革のソファ、磨き上げられたカウンター、そしてほの暗い照明の中に浮かび上がる無数のボトル。窓がないため、外の夜景など微塵も見えない。
カウンターの奥に案内され、少し緊張しながら着席する。修さんは慣れた手つきでバーテンダーに短く会釈すると、俺たちを見た。
「何にする?」
同期の力は、緊張と興奮で目を輝かせながらメニューを開き、意を決したように言った。
「俺、バランタインの17年を……ロックでお願いします!」
23歳にしては随分と背伸びした注文だったが、力らしい真っ直ぐな憧れが詰まっていた。
俺は少し迷ってから、バーテンダーに向かって尋ねた。
「あの……横浜の夜景をイメージしたようなカクテルって、作っていただけますか?」
バーテンダーは優しく微笑み、「かしこまりました。横浜の夜の静けさをグラスに映してみましょう」と静かに頷いた。
そして修さんは、メニューも見ずに静かな声で告げた。
「俺はマンハッタンを。ベースはターキーで頼む」
バーテンダーの無駄のない美しい所作によって、3つのグラスがカウンターに並ぶ。
力の前には、丸氷がカラリと音を立てるバランタイン。
俺の前には、深みのあるシアンブルーが美しいカクテル。
そして修さんの前には、赤いチェリーが沈む、力強くも気品あるマンハッタン。
修さんはグラスを持ち上げ、静かに口をつけると、静寂を楽しむように一呼吸置いた。
「拓海、夜景が見えなくてがっかりしたか?」
図星を突かれ、俺は小さく縮こまった。修さんは優しく目を細めて言った。
「夜景なんてものはな、外に出て歩けばいくらでも見える。だが、ここにあるのは酒と、自分と、目の前にいる人間だけだ。夜景に気を取られてちゃ、グラスの中の酒の味も、隣の奴との会話も楽しめないだろう?」
その言葉に、力は雷に打たれたような顔をして深く頷いていた。
俺以上に修さんの言葉にシビれているのが一目で分かった。力の目は完全に修さんを「生涯の師」と仰ぐ目になっていた。
修さんは洗練された仕草でバーテンダーと二言三言、季節の話題を交わし、決して大声を出さず、かといって気取らずに空間そのものを味わっていた。
ロックグラスの氷がカランと鳴る音さえも、この部屋のBGMの一部のように思えた。
窓のない静かな空間で、自分たちだけの時間を濃密に楽しむ――。
俺は自分のグラスに視線を落とした。深い青色のカクテルの中に、カウンターの小さなともしびがひとつ、ポツンと浮かんでいた。
(これが、本物の大人のカッコよさなのか……)
バーを出てホテルのエントランスを抜けると、山下公園からの潮風が火照った頬を撫でた。
夜の港の明かりを見上げながら、俺と力はしばらく無言で歩いた。
「いつか俺たちも、あんな店が似合う男になれるのかな」
俺が呟くと、力はどこか遠くを見るような目で「俺は一生、あのバーに通うよ」と熱っぽく語った。
あいつの純粋さを見るに、たぶんこの先、デートの時でさえラウンジの夜景なんぞに逃げず、あの武骨で静かなメインバーに女の子を連れて行って撃沈するタイプだろう。間違いなく。
そんなあいつを横目で見ながら、俺は心の中でそっと付け加えた。
――修さんの教えはめちゃくちゃカッコよかったし、心から痺れた。だけど……次に気になる女の子をデートに誘う時は、やっぱり最初にラウンジで綺麗な夜景を楽しんで点数を稼いでから、2軒目にあのバーへ連れて行くことにしよう。
山下公園の夜景は、23歳の俺にはまだ少し、眩しすぎたのだった。
【現在(65歳)】
あの日から長い月日が流れた。
建物の老朽化に伴い建て替えが決まり、思い出の詰まったあのホテルも、窓のない重厚なメインバーも今はもう存在しない。
だが、解体工事の白いフェンスに囲まれたその跡地を通るたび、俺の胸にはあの秋の潮風と、グラスの中で揺れていた小さなあかりが鮮やかによみがえる。
新しいホテルが完成してオープンしたら、俺は必ずあの場所へ行こうと思っている。
力でも誘って、今度は俺たちが年を重ねた分だけ渋くなったロックグラスを傾けるのも悪くない。
まあ、あいつが相変わらず夜景の見えないカウンターで気取っている横で、俺はやっぱり、生まれ変わったラウンジから見える横浜の夜景を、じっくりと楽しませてもらうつもりだが。




