自分への投資とオーキッド
「カランコロン」と涼やかな鈴の音を響かせ、重い扉が開いた。
五月半ばの心地よい夜風とともに店に入ってきたのは、見慣れた二人の若者だった。
さっきまで駅からの暗い夜道を肩を並べて歩き、くだらない雑談で盛り上がっていたはずのふたり。しかし、バー「オーキッド」のドアをくぐった瞬間に、その距離感は一変する。
背の高い拓海は迷わず入り口に近い右端のカウンター席へ。一方の大迫力——力は、拓海と目も合わせず巨体をすり抜けさせ、一番左端の席へとドカッと腰を下ろした。
(まあ、相変わらずね)
グラスを拭いていた蘭ママは、思わず口元に艶っぽい笑みを浮かべた。
二人は今年、中堅メーカーの研究所に配属されたばかりの新入社員だ。厳しい新人研修を終え、サービス残業に追われながらも、雀の涙ほどの基本給を削ってこの店に通い詰めている。
一見すると不仲に見えるこの「両端の着席」だが、蘭ママには彼らの意図が痛いほどよく分かっていた。会社で朝から晩まで顔を合わせている同期と、せっかくの酒の席でまでべったりつるむなんて芸がない。ここ「オーキッド」のカウンターに並ぶのは、人生も仕事も一歩先を走る異業種の先輩たちだ。
医者のスマートな立ち振る舞い、ベンチャー起業家たちの猛烈な熱量、大手メーカー技術者のこだわり。全員30代半ばの独身で、それぞれの道を突き進んでいる猛者たち。そしてなにより、彼らは全員、この店の「ツケ」で気持ちよく酔いしれる粋な常連たちでもあった。
先輩たちの輪に飛び込み、仕事の姿勢や大人の遊び方を盗むこと。
それが彼ら二人の本当の目的であり、お互いに干渉せず両端に分かれるのは、ふたりの暗黙のルールなのだ。
もっとも、その意図を知らない人間からすれば、ただの「不仲」にしか見えないわけだが。
「マ、ママ……また二人、ケンカして入ってきました……!」
アルバイトの短大生・ゆみちゃんが、怯えた顔で蘭ママの袖を引っ張る。
「大丈夫よ」
蘭ママは30歳ならではの落ち着いた手つきで、棚から『ローヤル』の四角く重厚なボトルを下ろした。琥珀色の液体をグラスに注ぎ、ハラハラしているゆみちゃんに渡す。
ゆみちゃんは恐る恐る氷の入ったグラスを力の前に置き、ロックを作りながら探るように声をかけた。
「あ、あの……力さん。拓海さんと何かあったんですか……?」
力はグラスを持ち、ロックで煽ると、無表情のまま言った。
「別に」
「えぇ……?」
ゆみちゃんが首をかしげてポカンとしていると、拓海の隣に座っていたママの従兄で医者の修が、面白そうにクスクスと笑った。
「まあまあ。拓海くん、先月注文したXX、来週納車なんだ。今度ドライブでも行くかい?」
「本当ですか!? あの最新のやつですか! 男のロマンですねぇ……」
拓海が憧れのスポーツカーの話に目を輝かせていると、左端のほうからゆみちゃんと力の会話がふいに漏れ聞こえてきた。
「こんな生活しているとテレビも見れないから、ビデオデッキ買おうと思っているんだ」
「すごい、高いでしょう?」とゆみちゃんが目を丸くする。すると、右端の拓海がカウンター越しに声を張り上げた。
「力、テレビも見られないならビデオを見る時間だってないだろ!」
「でも、あの『不揃いな若者たち』のドラマに出てる、まりこちゃんの演技が見たいんだよ」
「俺なら圧倒的にCDプレーヤーだな。第九を雑音なしで聴きたいし、何よりあの『マリリンちゃん』の新曲をクリアな音で聴きたいね」
「おいおい拓海、あの光る円盤なんてどこにも売ってないぞ」
カウンターの右端と左端で繰り広げられる二人の会話は、いつまで経っても噛み合わず、平行線のまま発散していく。蘭ママは思わずクスクスと笑いを漏らした。
「……世間じゃあっちの規格が圧倒的だとか言ってるけどさ」
力はゆみちゃんに向かって熱っぽく語り直した。
「俺は絶対『シグマ』派なんだよ。画質も音も、技術としてはシグマが圧倒的に上なんだから」
その言葉が、二つ隣に座っていた理一の耳に入った。世界的な電機メーカー「ソニック」の研究所勤務である理一は、手にしていたグラスをピタリと止め、ハッとしたように力の方を振り向いた。
「……シグマですか! ありがとうございます!」
世間ではシグマ規格の敗色が濃厚と囁かれていた1985年の春。理一は背筋を伸ばし、感極まったように冗談めかしてお礼を言った。
一瞬の静寂のあと、カウンター全体が大爆笑に包まれた。
「理一さん、人の会話を盗み聞きしてお礼言ってるよ!」
カウンターの真ん中に座っていたソフトウェアベンチャーの賢治が腹を抱えて笑い、相棒の哲也もビールを飲みながら胸を張る。拓海も右端から野次を飛ばした。
「力、お前いつからソニックの営業マンになったんだよ!」
力もまさか本物の研究者からお礼を言われるとは思っていなかったらしく、一瞬あっけにとられた後、照れくさそうに「いや……本当のこと言っただけです」とロックグラスを傾けた。
賑やかさが一段落した頃、真ん中の賢治がふうと息を吐いて立ち上がった。
「今日も全然仕事進まなかったな」
「お前が昼間からオフィスで人生ゲームなんて持ってくるからだよ」と哲也が呆れ顔で突っ込む。
「いいんだよ! 起業家にとって人生ゲームは事業計画のシミュレーションなんだから! さあ、今から取り戻すぞ。ママ、お会計! いつものツケで!」
「はいはい、毎度どうもね」
蘭ママが微笑むと、二人はグラスを干し、このビルの3階にある自分たちのオフィスへと上がっていった。緑のモニタ画面に向かい、朝まで徹夜で巨大なソースコードを打ち込む長い夜が始まるのだろう。
「もうっ!」
ゆみちゃんは両手を腰に当ててぷんぷん怒った。
「みんなも拓海さんも力さんも、毎日終電ギリギリまで働いて疲れてるはずなのに、なんでそんな、たわいのない話で一々熱くなるんですか! ていうか、二人とも直接隣で話せばいいじゃないですか!」
「バカ言え」拓海は苦笑した。「会社で一日中顔合わせてんだぞ。酒飲むときまで真隣に座るかよ。それに……あいつの顔なんて見飽きてる」
遠くの左端で、力がフッと口元を緩め、剛とグラスを合わせるのが見えた。
深い仕事の悩みなんて、ここには持ち込まなくていい。くだらない雑談で笑い合い、少し先を走る先輩たちの生き方を肌で感じる。
この時間が、サビ残で擦り減った彼らの心を確かに満たしているのだ。
「ふふ、いいのよゆみちゃん」
蘭ママは琥珀色のボトルを優しく布巾で拭きながら、あたたかい眼差しで二人を見た。
「これがこの子たちの『照れくさい友情』であり、大人の息抜きの仕方なのよ」
グラスの氷がカランと音を立てる。
カウンターの反対側からも、まったく同じ高い音が、重なるように響いていた。




