大吟醸
「もう一杯、濃いめで」
マスターにグラスを差し出しながら、俺はふっと独りごちた。
サントリーの最高峰「ザ・ウイスキー」のあの上品なブランデーのような甘み。
あれを背伸びして割勘して味わった夜の記憶は、今でも俺の青春の金字塔だ。
だが、あの夜の成功談を思い出すと、セットで必ず苦々しくも笑える記憶が脳裏をよぎる。
「大人の酒」を知った気になって、生半可な知識で格好をつけて手痛い火傷を負った、もうひとつの夜のことだ。
◆◆◆
1985年、いつものように行きつけのスナック「オーキッド」のカウンターで、俺たちは酒のカタログをパラパラと捲る「読書」に興じていた。
「おいおい、このスコッチなんて一本十万円だってよ!」
「見るだけならタダだからな。目の保養、目の保養」
修さんや力、賢治さんに哲也さん、理一さんまで集まって、あーだコーダとカタログを眺めるのはいつもの光景だ。
だが、どれだけページをめくっても、酒飲みの間でまことしやかに囁かれている「あの酒」が載っていない。
日本酒の最高峰――「大吟醸」だ。
当時、大吟醸なんて酒は一般の市場にはほとんど普及しておらず、酒屋のカタログにすら名前も値段も載っていない「幻の酒」だった。
「カタログに載ってないってことは、相当な秘密兵器だな」
「一升瓶で一万超えるらしいぞ。どんな味がするんだ?」
酒の知識がつき始めて調子に乗っていた俺は、どうしてもその「幻」を味わってみたくなった。
みんなの前でいいところを見せたいという功名心もあった。
「ママ、次の酒屋の配達のときさ、大吟醸を一本頼んでおいてよ!」
「あら、拓海ちゃん。なんて銘柄の? おいくらくらいのお酒?」
ママに聞かれ、俺はカウンターの端でわざとらしく足を組み、通ぶった顔で言い放った。
「名前? 値段? そんなの一切問いません! 何でもいいから、酒屋が持ってる一番いい『大吟醸』を頼む! 男は黙って任せるんだよ」
「うわ、拓海格好イイ〜!」
「よっ! 酒飲み大将!」
力たちが茶化して囃し立てる。俺は「まあな」と鼻高々だった。
名前も値段も聞かずに注文するなんて、いかにも粋な常連客じゃないか。
――数日後。
「拓海ちゃん、例の『大吟醸』届いたわよ~」
カウンターには桐の箱に入った一升瓶。
店内にいた連中が一斉にカウンターへ群がった。
「ついに来たか!」
「頼むぞ、一番いい大吟醸!」
修さんがゴクリと唾を呑み、理一さんも興味津々で覗き込む。
カウンターの上に、ママが重々しく置いた一升瓶。
「……ん?」
真っ先に声をあげたのは力だった。ラベルを凝視して首を傾げている。
「なぁ拓海……これ、テレビのCMで毎日流れてる、あの有名な灘の大手メーカーの名前じゃないか?」
「えっ?」
俺は焦ってラベルを二度見した。
確かに、スーパーや居酒屋の看板で嫌というほど目にする、あの超大手酒造のロゴがどかんと鎮座している。
当時の酒好きの間では、「せっかく飲むなら地方の珍しい地酒」という風潮があり、どこでも買える大手メーカーの酒はちょっと敬遠される傾向があったのだ。
「ま、まあ待てよ! 大手だからってバカにするなよ。あのメーカーが本気で造った『大吟醸』なんだから!」
冷や汗をかきながら弁明する俺の横で、賢治さんが瓶の裏ラベルを指さした。
「あ……拓海、ここに『醸造用アルコール添加』って書いてあるぞ」
「えっ、アル添!? 大吟醸って米だけで造るんじゃないの!?」哲也さんが声を張る。
「いや、規定としてはアルコール添加の大吟醸もあるんだけどさ……」理一さんが微妙な顔でフォローしようとするが、空気はどんどん怪しくなっていく。
「おいおいおい!」修さんが大爆笑し始めた。
「『何でもいいから一番いい大吟醸を頼む』って格好つけたら、一番フツーに流通してる大手のアル添大吟醸が来ちゃったわけだ!」
「ち、違うんだよ! 酒屋がこれを持ってきたんだから、これが最高級なんだって!」
必死に張る虚勢。だが、一番大事なのは味だ。飲んで美味ければ俺の勝ち、文句はあるまい!
「とにかく飲もう! 大吟醸なんだから美味いに決まってる!」
ママが猪口を人数分並べ、トクトクと透明な液体が注がれる。
部屋に漂うのは……うん、なんだか妙に甘い香りだ。
「じゃあ……拓海のおごりの『幻の大吟醸』に、乾杯!」
力の意地悪な掛け声で、全員が一斉に猪口を傾けた。
口に含んだ瞬間――
「……甘っっ!!」
力が真っ先に吹き出しそうになった。
フルーティーで華やか……という期待とは裏腹に、口の中に広がったのはベタベタとした強烈な甘みと、醸造用アルコールのツンと刺さるような角だった。
「なんじゃこれ! 甘ったるいぞ!」修さんが顔をしかめる。
「まるで砂糖水に焼酎混ぜたみたいだな……」哲也さんが苦笑いする。
「いやぁ、大吟醸ってのは奥が深すぎて、僕みたいな素人には『ただ甘くて辛い酒』にしか思えないなぁ~!」
力がこれみよがしに大声をあげ、店内にドッと爆笑が巻き起こった。
「拓海! 『男は黙って任せる』の結果がこれかよ!」
「格好つけるから酒屋にカモにされたんだよ!」
「最高級の砂糖水、ごちそうさまで~す!」
「う、うるさいな! 酒屋が悪いんだよ、酒屋が!」
顔を真っ赤にして反論する俺に、ママが笑いながら氷水を差し出してくれる。
「はいはい、拓海ちゃん。お口直しに水どうぞ」
ドンペリやザ・ウイスキーで少しばかり「大人の階段」を上った気になっていた俺は、生半可な知識で格好をつけた罰として、仲間たちの絶好のイジリネタにされてしまったのだった。
生半可な知識で格好をつけると酷い目に遭う――それが、俺が二十代で学んだ、最も苦くて甘い教訓だった。
◆◆◆
「……マスター、日本酒もらえる? 何かおすすめの地酒を」
ウイスキーグラスを置いた俺は、カウンター越しにマスターへ声をかけた。
「かしこまりました。今夜は良い純米吟醸が入っていますよ」
静かに注がれた冷酒グラスから、涼やかな米の香りが立ち上る。
口に含むと、爽やかな酸味と米の旨味がスッと広がり、綺麗に喉の奥へ消えていった。
醸造用アルコールの角も、ベタつく甘さもない。洗練された、本物の地酒の味わいだ。
あの1985年から四十年に近い月日が流れた。
今や「大吟醸」や「純米吟醸」なんて言葉は誰もが知っていて、居酒屋に入れば全国津々浦々の美味しい地酒が当たり前のように飲める時代になった。
「あの頃の甘い大吟醸に比べたら、今の酒は本当に美味くなったなぁ……」
グラスを傾けながら、俺は独りごちた。
あの日、オーキッドで散々俺をからかって笑っていた力や修さんたちは、今どこでどんな酒を飲んでいるだろうか。
名前に踊らされ、味も分からずに背伸びをしては失敗し、みんなで大爆笑していたあの青くさくて熱い夜。
あの苦く甘い大吟醸の味は、間違いなく俺たちの青春の味だった。
「……まあ、あんな失敗も悪くなかったか」
俺は純米吟醸のグラスを軽く傾け、記憶の中のオーキッドの仲間たちに向かって、静かに乾杯した。




