サントリー ザ ウイスキー
今日もロイヤルを濃いめの水割りで飲んでいる。
最近は空前のジャパニーズウイスキーブームらしく、山崎や白州といったボトルが驚くような高値で取引されているという。
バーの棚に恭しく並ぶそれらを見るたび、俺の頭には別の名前が浮かぶ。
「山崎の18年やら25年やらが騒がれる前から、サントリーにはとんでもない化け物がいたんだよな」
グラスを軽く傾けながら呟くと、隣の客が不思議そうな顔をした。
今でこそ日本のウイスキーが世界中で絶賛されているが、昭和のあの頃だって、すでに極上のボトルは存在していたのだ。
サントリーの最高峰――その名もシンプルにして絶対的な、「ザ・ウイスキー」。
あれをオーキッドの仲間たちと開けた夜のことは、今でも鮮明に思い出すことができる。
◆◆◆
1985年俺宮本拓海23歳。
当時、行きつけの「オーキッド」には少し変わったブームがあった。酒のカタログを「読書」することだ。
カウンターの端には、酒屋が置いていく厚手の酒類カタログや専門誌が何冊か転がっていた。
ネットもスマホもない時代、俺たちは酒を飲みながらそのページをめくり、世界中の見たこともない銘柄のラベルや説明文を食い入るように眺めたものだった。
そこに書かれた「〇〇年熟成」「芳醇なオークの香り」といった言葉は、まだ見ぬ大人の世界への冒険書のようなものだった。
その夜も、ママのいとこの修さんが、カウンターでカタログのページを熱心に指で辿っていた。
「おい、みんなちょっとこれ見てみろよ」
修さんが声を張ると、常連の理一さんや力、賢治さんに哲也さんもぞろぞろと集まってきた。
修さんが示していたのは、サントリーのページの一番上に小さく、しかし異彩を放って掲載されていたボトルだった。
「……サントリー ザ・ウイスキー……?」
力が読み上げる。
「なにこれ、定価五万円!? オールドが二千円ちょっとなのに五万って、頭おかしいだろ!」
「ボトル見てみなよ、ガラスじゃないぞ。有田焼の陶器だ……木箱に入ってる」
賢治さんが目を丸くする。
理一さんも
「サントリーが本気中の本気で造った最高峰らしいよ。山崎蒸溜所の超長期熟成原酒を贅沢に使ってるんだと」
と、知識を披露した。
定価五万円。
オーキッドのシステムを使えば酒屋の定価で買えるとはいえ、若造の俺たちにとっては給料の何分の1かが一瞬で吹き飛ぶ金額だ。
だが、カタログの「唯一・至高」という謳い文句と、重厚な有田焼ボトルの写真は、酒呑みたちの見栄と好奇心を強烈に刺激した。
「……なぁ、一人一万ずつ出せば、飲めるんじゃないか?」
蘭ママがぽつりと言った。
だが、その一言で全員の目がギラついた。
ドンペリの夜と同じだ。理由なんて後付けでいい。
俺たちはただ、その「最高峰」とやらを自分たちの舌で確かめてみたかったのだ。
◆◆◆
一週間後。取り寄せてもらった「ザ・ウイスキー」がオーキッドのカウンターに君臨した。
重々しい木箱のフタを滑らせると、中に収まっていたのは、重厚な紋様が施された有田焼のボトルだった。
触れるとひんやりと冷たく、陶器独特のずっしりとした重みが手に伝わってくる。
「うわぁ……ボトルだけで飾っておけるな、これ」
哲也さんが溜息を漏らす。
ドンペリのときのマナー失敗談が頭をよぎった俺は、今回は余計なウンチクを垂れずに、静かに陶器の栓を抜いた。
ポン、と低く上品な音が小さく響く。
ママが用意してくれたストレートグラスに、琥珀色の液体が注がれていく。
部屋中に広がる香気だけで、全員が息をのんだ。いつも飲んでいるロイヤルやリザーブとは、明らかに空気が違う。華やかで、深くて、甘い。
「じゃあ……ウイスキーの最高峰に、乾杯」
理一さんの合図で、俺たちはグラスを傾けた。
口に含んだ瞬間、濃厚な甘みと果実のような芳醇な香りが、怒涛のように鼻腔へ抜けていった。
ウイスキー特有の角立ったアルコール感は一切ない。
シェリー樽の深いコクと、ミズナラ樽由来のエキゾチックな木香が重なり合い、舌の上でとろけるように広がっていく。
「……なんだこれ」
俺は思わず声を漏らした。
「めちゃくちゃ美味い……けど、これ……ウイスキーか?」
「わかる」と修さんが頷く。
「熟成されすぎてて、まるで高級なコニャックみたいだ。ウイスキーというより、極上のブランデーを飲んでる感覚に近いな」
「そうそう! 葡萄の甘みというか、濃密な果実感がすごい。これがモルトの熟成ってやつか……」
賢治さんも哲也さんも、その甘美な余韻に酔いしれながら、ちびちびと大切にグラスを傾けた。
大人の階段をまた一段登ったような、誇らしげな満足感が店内を満たしていく。
五人で分けた贅沢なボトルは、昭和の夜の熱気と共に、ゆっくりと空になっていった。
有田焼の空き瓶は、オーキッドの棚の特等席に飾られることになり、俺たちの小さな自慢がまたひとつ増えたのだった。
◆◆◆
宴もたけなわ、すっかり出来上がった俺たちは、カウンターでそれぞれのグラスに残った最後の数滴を愛おしそうに眺めていた。
静かな余韻が漂う中、それまで黙ってグラスを転がしていた力が、ふと頭をかきながら呟いた。
「いやぁ、最高に美味かったな……。でもさ」
力は有田焼のボトルと、自分のグラスを交互に見つめ、どこか首をかしげながら言った。
「……こんなに美味いなら、最初からブランデー買えば良かったんじゃないか?」
一瞬の静寂の後、店内に爆笑が巻き起こった。
「おい力! それ言ったら元も子もないだろ!」
「サントリーのブレンダーが泣くぞ!」
修さんが吹き出し、ママが呆れ顔で氷を足してくれる。
せっかくの最高峰の講釈も、力の一言で見事に昭和の酒場の雑談へと着地した。
◆◆◆
あれから四十年に近い月日が流れた。
オーキッドはもう無く、あの日一緒に割り勘をした仲間たちも、それぞれの人生を歩んでいる。
グラスの中の氷がカランと音を立てて溶け、ロイヤルの水割りが少しだけ薄くなった。
「ブランデーで良かったかな」
でも、あの日から酒屋がどんな無理な注文も引き受けてくれるようになったな。
あの夜の力の言葉を思い出し、俺は一人で苦笑する。
確かにあの味は、ウイスキーの枠を超えたブランデーのような妖艶さがあった。
だが、俺たちが欲しかったのは味そのものだけじゃない。
カタログを囲んであーだコーダと夢を語り、背伸びをして五万円のボトルを割り勘した、あの青くさくて熱い時間そのものだったのだ。
俺は少し薄まったロイヤルを飲み干し、マスターに「もう一杯、濃いめで」とグラスを差し出した。




