南の島の思い出
今、クルーズ客船で八丈島付近を通過している。小笠原諸島・父島からの復路の途中だ。
フレンチのディナーの後に、ビールを片手に甲板で潮風に吹かれていると、ふと41年前――1985年、23歳だったあの夏に伊豆諸島で盛大に玉砕した、甘酸っぱくも苦い記憶が蘇ってきた。
最近は円安の影響で海外旅行を控える人も増えたと聞くが、それでも昔に比べれば随分と気楽にどこへでも行ける時代になったと思う。
あの時代――1985年の若者にとって、「海外」なんて新婚旅行か一部のお金持ちが行く高嶺の花。
滅多に行けるもんじゃなかった。
だからこそ、当時の若者にとって「南のリゾート」と言えば、なんと言っても伊豆諸島だったのだ。
当時の伊豆七島は、若者たちの間では「伝説のナンパ島」としてその名を馳せていた。
夏になれば、猫も杓子も小麦色に焼けた肌とひと夏の恋を求めてその島を目指した。
例に漏れず、23歳だった俺と力のふたりも島への旅を決行することになったのだ。
まさに杉山清貴&オメガトライブの『ふたりの夏物語』が街に流れるなか、誰も彼もが浮かれた気持ちで南の島を目指していた時代である。
◆◆◆
出発は金曜日の夜。
案の定、会社でサービス残業に捕まり、時計の針は容赦なく刻まれていく。
着替えを詰めたバッグを抱え、浜松町駅の改札を全力で駆け抜けた。
息を切らし、竹芝桟橋のフェリーに文字通りダッシュで飛び乗った時には、すでに船の汽笛が夜の港に低く響き渡っていた。
船内に一歩足を踏み入れて絶句した。
甲板から客室に至るまで、溢れかえった若者たちで足の踏み場もない。
持ち込んだラジカセから流れる音楽に身をゆだね、缶ビールを酌み交わし、すでに船の上からお祭り騒ぎだった。
俺と力は、わずかな隙間を見つけて雑魚寝を決めるしかなかった。
通路に横たわっていると、混雑する船内を行き交うスカート姿の女の子が、悪気もなく俺たちの頭の上を跨いでいく。
そんな無茶苦茶な光景すら、これから始まる夏への期待感でどこか愛おしく思えた。
翌朝、熱気に包まれた島に到着した。
太陽が照りつける白浜へ繰り出すと、そこはまさに男と女の戦場だった。
俺たちはビーチの端から端まで、それこそ喉がカラカラになるまで女の子に声をかけ続けた。
……しかし、一向に捕まらない。
原因はハッキリしていた。
俺が声をかける相手が、ことごとく「抜群のスタイルで、小麦色に焼けたワンレンのサーファー女子」ばかりだったからだ。
当時のトレンドのど真ん中にいた彼女たちは、当然のようにモテモテでハードルも高い。
見かねた力が「拓海、少しタイプを変えろって! このままじゃ全敗だぞ!」と呆れ顔でアドバイスしてくる。
だが、男のプライドというのは厄介なものだ。
「いや、俺は妥協しない」と意地を張り続け、ついにビーチのパラソルの下でトロピカルドリンクを飲んでいる、超ストライクの女の子ふたり組を発見した。
俺は満面の笑みで「こんにちは! 一緒に飲まない?」と自信満々に声をかけた。
すると、サングラスを少しずらした彼女は、俺たちをじろりと見て不思議そうに言い放った。
「おじさんたち、何しにこの島に来たの? ……釣り?」
――おじさん? 俺たち、ピチピチの23歳だぞ?
――釣り? いや、女の子を釣りに来たんだけど……!
脳内で激しいツッコミが渦巻くも、声には出ない。
ナンパ撃沈どころか、俺たちのプライドと心が木っ端微塵に砕け散った瞬間だった。
結局、陽が沈むまで成果はゼロ。
あれほど賑やかだったビーチから人が消え、静かな波の音だけが響くようになった。
夜の砂浜で、男ふたり、ポツンとしゃがみ込んで線香花火に火をつける。
手元に残ったのは、不発に終わった情熱と、島のみやげ屋で買った安っぽい花火セット、そしてスナック『オーキッド』へのお土産に買った名物の「クサヤ」だけだった。
パチパチと儚く弾ける火花を見つめながら、力が「だから言ったろ」と呆れ半分に笑い、俺も「まあ、こんな夏も悪くないさ」と缶ビールを打ち鳴らした。
若さと情熱を盛大に無駄遣いした23歳の旅は、こうして静かに終わったのである。
……でも、帰りの船から見えた夕焼けの富士山は、今も忘れられない。
ナンパには見事に全敗したけれど、潮風に吹かれながら甲板で見つめたあのオレンジ色に染まる雄大な景色だけは、俺たちの青くさい夏を、ただ優しく肯定してくれている気がした。
……と、綺麗にまとまれば格好良かったのだが、この旅にはさらに情けない後日談がある。
島から帰り、俺たちはそのままスナック『オーキッド』へ直行した。
「ママ、南の島のお土産!」と意気揚々とクサヤを渡し、その場で焼いてもらったのだ。
次の瞬間、店内に充満したのは想像を絶する猛烈な激臭だった。
あまりの匂いに換気扇も追いつかず、ドアを開け放しても匂いは一向に消えない。
店としての営業は完全に終了、一瞬で「災害現場」のような惨状と化した。
だが、そこにいた常連たちは誰ひとりとして帰ろうとしなかった。
「うわっ、くっせぇー!」
「拓海、お前店で何焼かせてんだよ!」
と鼻をつまんで大騒ぎしながらも、みんな笑ってグラスを傾け、その強烈な匂いをツマミに夜が明けるまで延々と飲み続けたのだ。
あの強烈なクサヤの匂いと、店内に響いていたみんなの笑い声。
そして、翌朝のトイレで再び襲いかかってくる強烈な匂いもまた、64歳になった今でも色褪せない、最高の思い出である。




