セラの覚悟
「……見せたいものがあるの」
その夜、セラは珍しく緊張した面持ちで、牢の前に現れた。手には、普段の記録用羊皮紙とは違う、古びた革表紙の帳面を抱えている。
「それは」
「お父様のノート」
セラの声は、微かに震えていた。
「今まで、誰にも見せたことなかった。……見せたら、危ないから」
「危ない?」
セラは周囲を見回し、看守が離れていることを確認してから、格子の隙間から帳面を差し出した。
「読んで。静かに」
俺は帳面を受け取った。革の表紙は擦り切れ、幾人もの手を経てきたことが伺える。ページを開くと、几帳面な文字と、複雑な図が並んでいた。
「お父様は、学者組合に所属してた研究者だった。専門は、顕在化そのものの起源」
セラは、俺が帳面を読む間、静かに語り始めた。
「顕在化がどうやって発生するのか。なぜ、一部の人間だけがその力を持つのか。……それを解明しようとしてたの」
「学者らしい研究だな」
「そう、普通ならね」
セラの声に、翳りが差した。
「でも、お父様の研究は、途中である方向に進み始めた。顕在化を持たない人間が、それでも成長できる可能性——顕在化に頼らない鍛錬理論の存在について」
心臓が、大きく跳ねた。
「それは……」
「昔、大陸のどこかで、無属だけの軍が、帝国の精鋭を打ち破ったことがあるらしいの。お父様はその戦いの記録を追いかけてた」
俺は帳面のページをめくる手を止めた。
無属戦役。
俺自身の記憶の中にある、あの戦いの名だ。まさか、この時代になっても、その記録が残されているとは。
「……なぜ、その研究が危険なんだ」
俺はできる限り平静を装いながら聞いた。
「顕在化っていうのは、この国の身分制度そのものを支えてる仕組みだから」
セラは苦い顔で言った。
「顕在者は特別な存在として扱われ、無属は虫けらのように扱われる。それが、この社会の根っこにある。……もし、無属でも顕在者に匹敵する成長ができるって理論が広まったら、どうなると思う?」
「身分制度が揺らぐ」
「そう。だから、そういう研究は、体制側にとって都合が悪い。お父様の研究が、その方向に近づき始めた頃……」
セラの声が、初めて震えを帯びた。
「ある日、学者組合の関係者だと名乗る人たちが、家にやって来た。お父様は、"詳しく話を聞きたい"って、連れて行かれた。……それきり、帰ってこなかった」
沈黙が落ちた。俺は、彼女の抱えていたものの重さを、ようやく理解した。
「それで、興行組合の記録係に?」
「お父様がいなくなった後、家は借金だらけになって。私も、売られるようにしてここに来た」
セラは自嘲するように笑った。だが、その目には涙の膜が張っていた。
「今まで、誰にも言わなかった。言えば、私も同じ目に遭うかもしれないから」
「なぜ、今、俺に話す」
俺の問いに、セラはしばらく黙り込んだ。それから、ゆっくりと顔を上げた。
「……あなたの記録の付け方、鍛錬理論の組み立て方。お父様のノートに書かれてた考え方と、あまりにも似すぎてる」
セラの目が、まっすぐに俺を見据えた。
「最初は偶然だと思おうとした。でも、無理だった。あなたは絶対に、何か知ってる。お父様の研究に繋がる何かを」
俺は答えられなかった。
「怖いの」
セラの声が、微かに揺れた。
「知ってしまったら、お父様と同じ目に遭うかもしれない。でも……もう、知らないふりを続けるのも、限界だった」
彼女の手が、震えているのが分かった。それでも、彼女は帳面を俺に差し出したままだった。
「読んで。私が、初めて他人に見せる、お父様の全部よ」
俺は帳面のページを、静かにめくり続けた。顕在化の起源に関する考察。無属の成長曲線に関する仮説。どれも、この時代の学者にしては驚くほど鋭い洞察に満ちていた。
そして、あるページで、俺の手が止まった。
古びたインクで、こう記されていた。
――『無属戦役 詳細記録。指揮を執ったとされる人物、名は伝わらず。後世、"名も無き指南役"と呼ばれる』
その名を、俺は知っている。
かつて、自分自身が、そう呼ばれていたことを。
手の震えが、抑えられなかった。帳面を持つ指先が、白くなるほど強張る。
「……リド?」
セラが訝しげに、俺の顔を覗き込んできた。
「どうしたの、急に顔色が」
俺は答えられなかった。喉の奥が、からからに乾いている。
まさか―この帳面の中に、自分自身の過去が記されているとは。
セラの父が追いかけていた研究は、俺自身の―カイエンという男の、生きた証そのものだったのだ。




