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銀級への壁、見えた影


セラの帳面を見た夜から、俺はしばらく、上手く眠れなかった。


「名も無き指南役」―その名が示す事実を、まだセラには明かしていない。明かせば、彼女をさらに危険に巻き込むことになる。それは分かっていた。だが同時に、いつまでも隠し通せるものでもないだろう。


「……大丈夫? ここ数日、変よ」


朝の配給の列で、セラが小声で聞いてきた。


「少し、考え事をしていただけだ」


「あの帳面のこと?」


「……ああ」


セラは何かを言いかけて、やめた。彼女なりに、俺の様子から何かを察しているのだろう。だが、それ以上追及してこないあたり、彼女なりの気遣いなのだと分かった。


「それより、昇格戦の告知が出たわよ」


セラが差し出した貼り紙には、こう記されていた。


『銀級昇格戦 リド 対 銀級剣闘士ヴォルグ』


「ヴォルグ……知ってるのか」


「属州でも上位の実力者よ。しかも」


セラは声を潜めた。


「今回の試合、貴賓席が満席になるらしいわ。総督閣下だけじゃなく、帝都からも視察の貴族が来るとか」


胸の奥が、ざわりとした。銀級への壁は、これまでとは比較にならないほど高い。しかも、注目度まで跳ね上がっている。


「準備、進めましょう」


セラの言葉に、俺は頷いた。ガロも協力を申し出てくれ、俺たちは残された日々を、可能な限りの分析と鍛錬に費やした。


試合当日。


闘技場は、これまでで最も熱気に満ちていた。観客席は隙間なく埋まり、貴賓席には見慣れぬ豪奢な装いの人々の姿もある。帝都から来たという貴族たちだろう。


「対戦相手、銀級剣闘士ヴォルグ!」


司会の声とともに現れた男は、これまで見てきたどの相手よりも、隙のない立ち姿をしていた。長年の実戦で鍛え上げられた、洗練された動き。ダロスやファルスとは、明らかに格が違う。


(数字だけでは、埋まらない差もある)


俺は静かに息を整えながら、これまで積み上げてきた記録と分析を、頭の中で総動員する。


「始め!」


合図と同時に、ヴォルグが動いた。


速い。だが、これまでと違うのは、速さだけではない。動きの選択肢が多く、こちらの予測を平然と裏切ってくる。


一撃、二撃。かわしながら、俺はヴォルグの癖を探る。だが、この男には明確な"癖"と呼べるものが少なかった。それこそが、実力者たる所以なのだろう。


(それでも……)


完全に癖がない人間などいない。俺は防戦を続けながら、僅かな情報を、意識の底に積み上げ続けた。


十数合を超えた頃、ようやく一つの傾向が見えてきた。ヴォルグは、連続で技を繰り出した後、必ず一瞬だけ、呼吸を整える間を取る。ごく僅かな、しかし確かな隙。


俺はその瞬間を狙い、鈍らを彼の胴に叩き込んだ。


「――ッ」


ヴォルグの体が、わずかによろめく。決定打には至らない。だが、確かに手応えはあった。


観客席から、地鳴りのような歓声が上がる。


「…やるな、無属」


ヴォルグが初めて口を開いた。


「その動きの読み方、只者じゃないな」


「褒め言葉として受け取っておく」


俺たちは再び構え直した。決着はまだつかない。だが、俺は確かな手応えを胸に、次の一手を組み立てていた。


長い攻防の末―最終的に、俺はヴォルグの防御をこじ開け、辛くも勝利を収めた。


「勝者、リド!」


司会の声とともに、闘技場全体が沸き立った。これまでとは比較にならない歓声。無属の剣闘士が、銀級の壁を越えたという事実が、観客たちを興奮させていた。


俺は肩で息をしながら、その歓声を浴びていた。


達成感が、確かに胸を満たしている。積み上げてきたものが、また一つ形になった。


だが―ふと、視線を貴賓席に向けた瞬間、俺の背筋に、冷たいものが走った。


貴賓席の隅、豪奢な装いの一団の中に、ひときわ目を引く人物がいた。


黒を基調とした装束。表情はよく見えない。だが、その佇まい、剣を帯びる位置、僅かな体の傾け方―


見覚えが、あった。


心臓が、跳ねる。まさか、そんなはずはない。あの男は、遠く離れたアルドレア王国にいるはずだ。あるいは、俺の記憶違いか。見間違いか。


俺は目を凝らした。だが、次の瞬間には、その人物の姿は人混みに紛れ、視界から消えてしまっていた。


「……リド? どうしたの?」


控室に戻る途中、セラが心配そうに声をかけてきた。俺の表情が、余程強張っていたのだろう。


「いや……何でもない」


そう答えながらも、俺の胸の中では、拭えない不安が渦を巻いていた。


あの佇まい。あの気配。もし、本当にあの男だとしたら――俺の過去そのものが、この属州にまで追いついてきたことになる。


裏切られた記憶が、鮮明に蘇る。信頼していた男に、刃を突き立てられた瞬間の感触。


「……まさか、な」


俺は小さく呟いた。だがその呟きは、自分自身の不安を打ち消すには、あまりにも頼りないものだった。


嵐の予兆は、確かに、俺のすぐそばまで迫っていた。


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