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呼び出し


銀級昇格の興奮が冷めやらぬ中、俺は一人、控室の隅で考え込んでいた。


貴賓席で見た、あの気配。


「……まだ気にしてるの、それ」


セラが心配そうに顔を覗き込んでくる。試合の翌日、彼女はいつもより早く牢の前に来ていた。


「大したことじゃない。見間違いだったかもしれない」


「見間違いにしては、顔が真っ青だったけど」


セラは鋭い。誤魔化しきれないと悟り、俺は小さく息を吐いた。


「知り合いに、似た男がいた。……もう、会うはずのない相手だ」


「会うはずのない?」


「死んだと思っていた、という意味だ」


セラはそれ以上踏み込んでこなかった。ただ、羊皮紙を握る手に、僅かに力がこもったのが見えた。


「もし本当にその人がここにいるなら……なんで、こんな辺境の闘技場に?」


「分からない。だからこそ、気になる」


俺たちがそんな会話を交わしていると、看守が慌ただしく駆け込んできた。


「リド! 総督閣下がお呼びだ、支度しろ!」


ついに来たか、と俺は思った。ヴィクトルの興味を引いてから幾度となく噂には上っていたが、直接の呼び出しは初めてだった。


「俺も行っていいのか」


ガロが横から口を挟む。


「お前は呼ばれてねぇよ」


看守が呆れたように言い、俺だけが連れ出された。


闘技場の奥、貴賓用の控えの間。そこは、俺たちが普段過ごす牢とはまるで違う世界だった。柔らかな絨毯、香を焚いた空気、贅を尽くした調度品。


「ーー噂の無属というのは、お前か」


低く、抑揚のない声。振り返ると、豪奢な椅子に腰掛けたヴィクトルが、値踏みするような目でこちらを見ていた。歳の割に肌艶がよく、指には幾つもの宝石の指輪が光っている。


「リドと申します」


俺は前世の礼儀作法を、この体で再現するように頭を下げた。ヴィクトルの片眉が、僅かに動く。


「奴隷剣闘士にしては、随分と丁寧な物腰だな」


「無知は死を招きますので」


「気に入った」


ヴィクトルは薄く笑った。だがその笑みに、温かみは欠片もない。


「単刀直入に言おう。お前を、上級興行の常連に組み込む。次の大興行―秋の収穫祭に合わせた催しで、目玉の一つとして出場してもらう」


「拒否権は」


「ない」


即答だった。ヴィクトルは杯を傾けながら、退屈そうに続けた。


「代わりに、待遇は良くしてやる。飯も、房も、お前が今いる場所とは比べ物にならんほどにな。……もっとも、負ければすべて意味がないがな」


「大興行の詳細は」


「まだ言えん。だが、これだけは覚えておけ」


ヴィクトルは杯を置き、初めてこちらを真っすぐ見据えた。


「今回の大興行には、帝都からも観覧の使者が来る。私の顔を潰すような負け方は、許さんぞ」


その言葉の裏に、俺は別の意図を感じ取った。単なる興行の成功以上の、何か政治的な思惑が透けて見える。


「……帝都からの使者とは」


「知る必要はない」


ヴィクトルは短く切り捨てた。だが、俺はその一瞬、彼の目の奥に、僅かな緊張が走ったのを見逃さなかった。


(何かに追い詰められている……?)


かつて、指南役として多くの権力者と渡り合ってきた経験が、俺にそう告げていた。この男は、余裕そうに振る舞ってはいるが、内心では何かに焦っている。


「話は以上だ。下がれ」


俺は一礼し、控えの間を後にした。


牢に戻る途中、看守がぼそりと呟いた。


「大興行に出るってことは、今までとは訳が違うぞ。負けりゃ命はない。それに……」


「それに?」


「今回の興行、なんでも興行組合の本部から特別な監査人が来るって話だ。閣下も、いつになくピリピリしてる」


監査人。


その言葉が、頭の中で先ほどの違和感と繋がっていく。ヴィクトルの緊張の正体は、あるいはそれかもしれない。


牢に戻ると、セラとガロが待ち構えていた。


「どうだった」


ガロが真っ先に聞いてくる。俺は聞いたことを、かいつまんで伝えた。


「大興行……」


セラの表情が曇る。


「これまでとは規模が違う。命の危険も、桁違いに高まるはず」


「それでも、やるしかない」


俺は静かに言った。


「拒否権はないと言っていた。それに―どのみち、頂点を目指すなら避けては通れない道だ」


ガロが低く唸った。


「なら、俺たちも本腰入れて準備するしかねぇな」


セラも頷いた。


「監査人の件、調べてみる。興行組合の書庫に何か手がかりがあるかもしれない」


三人で顔を見合わせる。不安と、それを上回る奇妙な高揚感が、静かに場を満たしていた。


窓の外、秋の気配を帯び始めた風が吹き抜ける。収穫祭までは、あと二月足らず。


俺たちの本当の戦いは、まだ始まったばかりだった。


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