ガロの過去
ダインが運ばれてから三日、彼はまだ房から出てこなかった。看守の話では、傷は塞がりつつあるが、右腕の腱が深く損傷しており、以前のように剣を握れるかは分からないという。
「……あの野郎、絶対にただじゃおかねぇ」
食堂の隅で、ガロが低く唸っていた。拳はいつからか固く握られたままで、指の関節が白くなっている。
「落ち着け」
俺が声をかけると、ガロは睨むようにこちらを見た。
「ッ!落ち着けだと? お前はダインの怪我を見て、何も感じなかったのか」
「感じた。だからこそ、今ここで暴れて自分まで潰されるのは、一番の悪手だと言っている」
ガロは奥歯を噛んだ。反論できないことは、彼自身が一番分かっているのだろう。
「……お前は、いつもそうやって冷静なんだな」
「冷静なんじゃない」
俺は静かに言った。
「感情を殺す術を、覚えているだけだ」
その言葉に、ガロは少し虚を突かれたような顔をした。
俺たちは食堂の隅、他の剣闘士たちから少し離れた場所に腰を下ろした。窓から差し込む光が、埃っぽい空気に筋を作っている。
「なあ、リド」
ガロがぽつりと切り出した。
「お前、故郷に、大事な誰かはいるのか」
その問いに、俺は一瞬言葉に詰まった。前世で育てた弟子たち。共に戦った戦友たち。だが、それを今の自分の口から語ることはできない。
「……いない、と言えばいない」
「そうか」
ガロは短く頷き、それから、独り言のように語り始めた。
「…俺には、娘がいる」
初めて聞く話だった。
「帝国軍に入る前、田舎で細々と暮らしてた頃に生まれた娘だ。母親は……もういない。俺一人で育てた」
「軍に入ったのは」
「娘に、まともな暮らしをさせてやりたかったからだ。軍に入りゃ、給金も出るし、退役すりゃ土地ももらえる。娘に苦労させたくなかった」
ガロの声には、隠しきれない後悔が滲んでいた。
「なのに、上官の不正を告発して、逆に濡れ衣を着せられて、こんな有様だ。娘には、まだ何も伝えられちゃいねぇ。……今頃、俺のことをどう思ってるのか」
「生きていることは、伝わっているのか」
「分からねぇ。軍からの連絡は、事実を捻じ曲げて伝えられてるかもしれねぇしな」
ガロは自嘲するように笑った。だが、その笑みの奥に、深い後悔と、それでも消えない希望が同居しているのを、俺は感じ取った。
「……だから、証拠を持ってるんだな」
「ああ。いつか、絶対に潔白を証明して、堂々と娘に会いに行く。それだけを支えに、ここまで生きてきた」
しばらく、沈黙が流れた。
俺は自分の胸の奥に、静かな熱が灯るのを感じていた。前世で失ったものと、今ここで見ているガロの姿が、どこかで重なる。
裏切られ、信じることが怖くなった俺。冤罪を着せられ、それでも娘のために生きようとするガロ。
立場は違えど、二人とも「大切な誰かのために、もう一度立ち上がろうとしている」という点では、同じなのかもしれない。
「ガロ」
「あ?」
「その証拠、いつか必ず使い道が来る。俺が保証する」
「……お前が保証してどうすんだよ」
ガロは笑ったが、その声には確かな安堵が滲んでいた。
「ダインのことも、証拠のことも、今すぐどうにかできるわけじゃない。だが、力を蓄えれば、いつか状況を変えられる場面が来る。俺は、そう信じている」
「信じている、ね」
ガロは俺の顔を、まじまじと見つめた。
「お前、経験でもあるみたいな言い方するな」
図星を突かれ、俺は一瞬言葉に詰まった。ガロはそれ以上追及せず、代わりに小さく笑った。
「まあ、いいさ。詮索はしねぇ」
ガロは立ち上がり、俺の肩を軽く叩いた。その手の力強さに、不思議と安心感を覚える。
「なあ、リド」
「なんだ」
「お前なら……」
ガロは一瞬言葉を切り、少し照れくさそうに視線を逸らした。
「娘に会わせても、恥ずかしくねぇ生き方ができそうだ。お前と組んでりゃ、な」
その言葉に、俺は胸の奥が、じんと熱くなるのを感じた。
前世で、多くの弟子たちから向けられた信頼の言葉を思い出す。あの時感じていた温かさと、今感じているものが、確かに同じ質のものだと分かった。
同時に、あの裏切りの記憶が、胸の奥でちくりと痛む。
それでも――俺は小さく頷いた。
「悪くない目標だ」
ガロは満足げに笑い、食堂を後にした。
一人残された俺は、窓の外に広がる灰色の空を見上げた。
積み上げてきた数字。ダインの怪我。ガロの過去。ヴィクトルの帳簿にあった、正体不明の符丁。
すべてが、少しずつ繋がりながら、俺をどこか大きな流れの中へと運んでいく感覚があった。
―もう一度、誰かのために動いてみるか。
その決意が、静かに胸の中で形を成していった。




