上級興行という檻
「上級興行、ってのは、そういうことだ」
ガロが低い声で言った。食事の列に並びながら、周囲に聞こえないよう声を落としている。
「格付け戦は、あくまで剣闘士の実力を測る"表向き"の試合だ。だが上級興行は違う。賭け金が桁違いに大きい。だから、興行主や貴族連中は、剣闘士の命より興行の"見栄え"を優先する」
「見栄え、とは」
「わざと不利な条件で戦わせる。相手の数を増やす。武器を制限する。……見世物として盛り上がるかどうかが、全てだ」
俺は黙って耳を傾けた。予想はしていたが、想像以上に歪んだ仕組みだった。
「銅級以上になると、上級興行に駆り出される可能性が上がる。総督閣下がお前に目をつけたってことは、近々そういう試合に組み込まれるってことだ」
その日の午後、それは現実になった。
看守が房の前に貼り紙を貼りに来る。俺の名前はまだない。だが、貼り紙の一覧に、見覚えのある名前を見つけて、俺は息を呑んだ。
『上級興行 対戦者一覧――剣闘士ダイン(銅級)対 猛獣二頭』
ダインは、俺がこの闘技場に来て最初に言葉を交わした、あの頬に傷のある少年だった。
「……二頭? 一人で?」
俺の呟きに、通りかかった看守が肩をすくめた。
「賭け率を面白くするための采配だよ。総督閣下のご指示だ。ダインは若いのに勝ち星が多いからな、少し苦戦する姿の方が、賭けが盛り上がるんだと」
看守は事もなげに言い、去っていった。俺はその場に立ち尽くした。
胸の奥から、ふつふつと怒りが込み上げてくる。前世でも、理不尽な采配で兵や弟子を消耗品のように扱う上層部を、何度も見てきた。だが、ここまであからさまに「見世物のための犠牲」を強いる仕組みは、初めてだった。
「……ダインは、勝てるのか」
俺はガロに聞いた。ガロは苦い顔で首を振った。
「猛獣二頭、しかも武器も制限されるとなりゃ、まともにやり合えば十中八九……」
言葉を濁したガロの表情が、答えを物語っていた。
その夜、俺は隣の房のダインに声をかけた。
「聞いたか」
「……ああ」
ダインの声は、以前の軽口とは打って変わって、硬く強張っていた。
「対策はあるのか」
「対策も何も……武器一本、二頭の猛獣。逃げ場のない闘技場で、どう戦えって言うんだよ」
俺は少し考えてから、地面に木炭で図を描き始めた。
「猛獣の種類は?」
「山猫だ。二頭とも」
「群れで動くタイプか、単独で動くタイプか」
「……知らねぇよ、そんなの」
「なら調べればいい。行動パターンが分かれば、二頭同時に相手をしなくて済む可能性がある」
俺はセラから借りた記録の書き方を、ダインにも簡単に伝えた。過去の猛獣戦の記録があれば、多少なりとも傾向は掴めるはずだ。
「……お前、なんでそこまでする」
ダインが訝しげに聞いてきた。
「お前は最初に、俺に声をかけた奴だ」
それだけ言うと、ダインは驚いたように黙り込み、それから小さく笑った。
「変な奴だな、お前」
「よく言われる」
俺はセラに頼み、興行組合の書庫から山猫の戦闘記録を探してもらった。二日間、できる限りの分析を重ね、ダインに伝えられる限りの情報を伝えた。
だが――試合当日。
俺たちの分析は、無情にも裏切られることになる。
「猛獣、追加で一頭投入!」
司会の声が響いた瞬間、観客席がどっと沸いた。
「な――話が違う!」
ダインの叫びが、砂塵の舞う闘技場に虚しく響いた。三頭目の猛獣が、突如として放たれたのだ。
俺は貴賓席の方向を見上げた。ヴィクトルが、退屈そうな顔で杯を傾けている。まるで、この采配の変更すら、彼の気まぐれの範疇であるかのように。
「くそ……!」
ガロが拳を握りしめる声が聞こえた。
俺たちにできることは、何もなかった。ただ、砂の上で必死に猛獣をかわし続けるダインの姿を、格子の隙間から見守ることしかできない。
分析は、正しかった。二頭までなら、対処できたはずだ。だが、規則すら平然と踏みにじる権力の前では、どんな緻密な準備も無力だった。
やがて、ダインの悲鳴が上がった。
肩から血を流し、片腕を抱えながら、それでも彼はどうにか壁際まで這いずり、看守たちに引きずり出された。
命は助かった。だが、二度と剣を握れないかもしれない、という囁きが、その夜の房内に広がった。
俺は拳を握りしめた。爪が食い込むほど強く。
前世で何度も感じた、無力感。だが今は、あの頃よりもずっと小さな体で、それを噛み締めている。
(ヴィクトル……)
貴賓席で見た、あの退屈そうな表情が、脳裏に焼き付いて離れなかった。あの男にとって、剣闘士の命など、賭博の駒以上の意味を持たないのだろう。
「……あの野郎、絶対に許さねぇ」
隣で、ガロが低く唸るように呟いた。
その怒りに、俺は静かに頷いた。だが同時に、冷静な部分が別のことを考えていた。
ヴィクトルほどの男が、ここまで平然と規則を無視できる背景には、何か後ろ盾があるのではないか。属州の総督という立場だけで、これほどの横暴が許されるとは思えない。
その予感は、正しかった。
数日後、俺はセラから、興行組合の帳簿の一部を見せられることになる。そこには、ヴィクトルの名と共に、聞いたこともない組織の符丁が、いくつも書き込まれていた。




