銅級への挑戦
一週間が経った。
セラとの記録作業は、俺の想像以上に精度を上げていった。踏み込みの角度、体重移動のタイミング、疲労が蓄積するまでの試合数、数字にすれば、たった一週間でも十を超える改善点が見えてくる。
「昇格戦の相手、決まったって」
セラが羊皮紙を持って牢に駆け込んできた。
「銅級剣闘士、ファルス。連勝記録持ちの実力者よ」
「情報は」
「試合記録、全部写してきた」
セラは羊皮紙の束を差し出す。この一週間で、彼女がどれだけ本気で協力してくれているかが、その厚みから伝わってきた。
俺は羊皮紙に目を通しながら、ファルスという剣闘士の戦い方を分析していく。踏み込みの深さ、得意な間合い、防御時の癖。すべてを頭の中で、数字と図に変換していった。
「……この選手、防御に回った時、必ず利き腕側に重心を残す。攻めるときは逆に、踏み込みが浅い」
「気づいたの?」
「お前の記録が正確だからだ」
セラは少し照れたように視線を逸らした。
昇格戦当日。闘技場の熱気は、初戦の時とは違う質のものだった。前回、俺は「見世物」として登場した。だが今回は違う。ダロスを下したという事実が、俺を「番狂わせを起こすかもしれない相手」として、観客の意識に刷り込んでいた。
「無属の坊主、今日はどこまでやれるかな!」
野次にも、以前ほどの侮蔑は混ざっていない。俺はそのわずかな変化を、静かに噛み締めた。
「対戦相手、銅級剣闘士ファルス!」
司会の声とともに、痩身で俊敏な男が現れる。ダロスとは対照的な体型だ。速さと技巧で戦うタイプ。
「始め!」
合図とともに、ファルスが仕掛けてくる。速い連撃。だが俺は、既にその軌道を頭の中で予測していた。
(利き腕側に重心。防御に回った瞬間が、最大の隙)
わざと一撃を受ける振りをして、防御の姿勢を誘う。ファルスが防御に回った刹那、俺は左側――彼の重心が流れる方向へ、一気に踏み込んだ。
「――なっ」
ファルスの体勢が崩れる。俺は間髪入れず、練習用の鈍らを喉元に突きつけた。
「そこまで! 勝者、リド!」
歓声が爆発した。今度は驚きだけではない。称賛の声も混ざっている。
俺は肩で息をしながら、その音を聞いていた。
勝った。しかも、今回は運や奇襲ではなく、積み上げた記録と分析による、再現性のある勝利だった。
胸の奥に、達成感が広がる。だが同時に、複雑な感情も渦巻いていた。
かつて前世で、俺はこの程度の勝利など、何百回と積み重ねてきた。弟子たちの成長を、まるで自分のことのように喜んだ日々があった。
その果てに、裏切られて死んだ。
だから今、この小さな勝利に心から浮かれることが、どうしてもできない。
「やったな!」
控室に戻ると、ガロが待っていた。珍しく、素直な称賛の言葉だった。
「情報、役に立ったか」
「ああ、助かった」
「なら良かった。……お前、本当に無属か? 動きの読み方が、まるで歴戦の猛者みたいだぞ」
図星を突かれ、俺は苦笑いでごまかすしかなかった。
その日の夜、房に戻ると、待遇の変化を実感することになった。看守が、以前より幾分か柔らかい表情で、粥ではなく、パンと僅かな肉が入った食事を運んできたのだ。
「銅級昇格おめでとさん。待遇、少しはマシになるぞ」
「……ありがとう」
素直に礼を言うと、看守は意外そうな顔をしてから去っていった。
パンを一口かじる。硬く、決して美味いものではない。だが、前回までの粥だけの食事に比べれば、雲泥の差だった。
隣の房から声がかかる。
「昇格祝いだな、リド」
以前絡んできた少年剣闘士だった。彼の声にも、以前のような侮蔑はない。
「まだ道半ばだ」
「贅沢言うなよ。無属で銅級まで来た奴なんて、この闘技場じゃ聞いたことねぇぞ」
俺はパンを噛みながら、静かにその言葉を受け止めた。
積み上げた数字が、確かに結果になった。だが、この程度で満足するわけにはいかない。金級、そして帝級。頂点までの道のりは、まだ途方もなく遠い。
その夜遅く、俺の耳に、思わぬ噂が届いた。
「聞いたか? 総督閣下が、今回の試合をご覧になってたらしいぞ」
「ああ。無属が銅級を連破するのを見て、興味を持たれたとか」
「上級興行に組み込むおつもりらしい、って話だ」
上級興行。
以前、ヴィクトルの興味を引いたときに聞いた言葉が、胸の奥で不穏に響いた。上級興行がどういうものか、俺はまだ詳しく知らない。だが、噂話の端々から伝わってくる緊張感が、それが決して喜ばしいだけの話ではないことを物語っていた。
窓の外、闇に沈む闘技場を見つめながら、俺は小さく息を吐いた。
―嵐は、思っていたよりも早く、こちらへ近づいてきているらしい。




