記録係の少女
「あなた、二戦目にしては動きがおかしいわ」
房の外から、聞き覚えのない声がした。
顔を上げると、鉄格子の向こうに、痩せた少女が立っていた。歳は俺と同じくらいだろうか。灰色がかった髪を後ろで一つに結び、手には木の板と羊皮紙の束を抱えている。興行組合の記録係が着る、地味な灰色の制服。
「誰だ」
「記録係のセラ。あなたの試合、二回とも記録を取ってたの」
セラと名乗った少女は、羊皮紙をこちらに向けた。びっしりと、数字と線が書き込まれている。踏み込みの角度、間合いの取り方、相手の重心が崩れた瞬間の座標―そんなものが、几帳面な文字で整理されていた。
俺は思わず、格子に近づいた。
「これを……お前が?」
「他に誰がやるのよ」
セラはやや不機嫌そうに言ってから、羊皮紙の一点を指で叩いた。
「ここ。ダロスの重心が流れた瞬間。あなた、狙って崩したでしょう。無属の反応速度じゃ、普通は見えないはずの隙よ」
心臓が、跳ねた。
顔には出さなかったつもりだ。だが、セラの目が僅かに細まったのを見て、隠しきれていないことを悟る。
「……三日間、他の試合の記録を読み込んだだけだ。ダロスの癖は、既に何度か記録されてたんだろう」
「読み込んだ、ね」
セラは羊皮紙をめくった。そこには、過去数十試合分の記録がびっしりと並んでいる。
「これ、興行組合の書庫にしかない資料よ。奴隷剣闘士が三日やそこらで、これだけの量に目を通せるわけがない」
痛いところを突かれた。俺は言葉に詰まる。
事実、俺は書庫の資料など読んでいない。前世の記憶と、断片的に流れ込んでくるこの体の持ち主の記憶、そしてこの三日間の観察だけで、ダロスの癖を推測したのだ。それを正直に話せば、余計に怪しまれるだけだろう。
「……何が言いたい」
「別に。ただ気になっただけ」
セラは肩をすくめた。だが、その目には隠しきれない好奇の色があった。
「無属で、顕在値もない、才能もないはずの剣闘士が、まるで…」
セラは一瞬、言葉を切った。
「まるで、何十年も戦い方を人に教えてきたみたいな、動きの読み方をする」
ぎくり、とした。あまりにも的確すぎる指摘だった。
「買いかぶりすぎだ」
俺はできる限り平静を装って言った。だがセラはそれ以上追及せず、代わりに羊皮紙を格子の隙間から差し出してきた。
「これ、あなたの試合の記録。欲しければ持ってて」
「……なぜ、俺に?」
「研究材料になりそうだから」
セラは素っ気なく言った。だが、その言い方には、単なる興味以上の何かが滲んでいた。
「研究?」
「……」
セラは一瞬、答えを迷うような間を置いた。
「私の父は、学者だった。顕在化の……力の数値化の、仕組みそのものを研究してたの。もう、随分昔の話だけど」
その一言に、俺の意識が強く引っ張られた。
顕在化の研究。それは、この世界のルールの根幹に関わる分野のはずだ。
「今は?」
「今は……いない」
セラの声が、初めて硬くなった。それ以上聞くなというように、彼女は視線を逸らす。
「とにかく。あなたの動き、記録として面白いから、これからも見させてもらうわ。文句はないでしょ」
「……好きにしろ」
俺がそう言うと、セラは小さく頷き、踵を返しかけた。だが、数歩進んだところで足を止め、振り向かずに言った。
「一つだけ、言っておく」
「なんだ」
「あなたの動きは普通の無属じゃない」
心臓が、大きく跳ねた。
「反応の遅れ方は無属そのものなのに、相手の隙を見つける精度だけが、明らかにおかしい。まるで、体と頭が別々の人間みたいに」
セラはそこで初めて振り返り、まっすぐにこちらを見た。灰色の瞳が、ひどく鋭い。
「…あなた、何を隠してるの?」
答えられなかった。
沈黙が、二人の間に落ちる。
「まあ、いいわ。今すぐ答えろとは言わない」
セラはふっと視線を緩め、羊皮紙の束を抱え直した。
「けど、覚えておいて。私、知りたがりなの。あなたの秘密、そのうち暴かせてもらうから」
彼女は今度こそ背を向け、闘技場付き施設の奥へと去っていった。
俺は格子を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
手の中に残された羊皮紙。びっしりと並んだ数字の羅列を見つめながら、俺は自分の中で、何かが静かに動き始めるのを感じていた。
―この体一つでは、積み上げられる数字には限界がある。
だが、あの少女のような分析力を持つ者が隣にいれば。
胸の奥に、久しく忘れていた感覚が蘇る。誰かと共に、何かを組み立てていくときの、あの手応え。
同時に、警戒も拭えない。人を信じることの代償を、俺は身をもって知っている。
それでも―羊皮紙に並んだ数字は、少なくとも嘘をつかない。
その事実だけを、今は拠り所にすることにした。




